数学の「賞」を考えるヒント?! こんなにいる!「ノーベル賞級」の日本人 (数学のノーベル賞「フィールズ賞」など)

こんなにいる!「ノーベル賞級」の日本人


2017年のノーベル賞は、文学賞に輝いた日本生まれのカズオ・イシグロ氏に注目が集まったものの、ファンが期待した村上春樹氏や自然科学系の日本人研究者は受賞に至らず、「日本人が4年連続」の栄誉はならなかった。だが、ノーベル賞以外にも国際的に権威がある賞はあまたあり、日本人は多くの賞に輝いている。読売新聞調査研究本部で科学を担当する佐藤良明主任研究員が、ノーベル賞級の業績を挙げている日本人を紹介し、日本の隠れた実力をリポートする。

数学のノーベル賞「フィールズ賞」


 科学分野で最初に挙げたいのは「フィールズ賞」だ。ノーベル賞が対象とする科学の分野は、物理学、化学、生理学・医学の3分野だけで、数学賞がないため、長くフィールズ賞は「数学界のノーベル賞」と言われていた。


 カナダの数学者フィールズの提唱で1936年に創設された同賞を、日本人はこれまでに3人が受賞している。そのうち、世間一般に名前が広く浸透している数学者といえば、広中平祐・元山口大学学長(70年受賞)だろう。他の受賞者である故・小平邦彦博士(54年受賞)と森重文博士(90年受賞)も数学界ではビッグネームだが、ノーベル賞受賞者ほど知られてはいないのは残念だ。

 世界各国の高名な数学者の集まりである国際数学者会議が授与するフィールズ賞はある意味、ノーベル賞よりも狭き門かもしれない。というのも、賞の授与が行われるのが同会議の開催周期に合わせた「4年に一度」に限られているからだ。しかも若手を顕彰するという意味で、賞の対象者を原則「40歳以下」にするという年齢制限までついている。

 ノーベル賞が毎年の授与で、しかも年齢制限がないことを考えると、賞の重みがまた違ったものに感じられる。実際、素粒子研究で2008年のノーベル物理学賞を受賞した益川敏英・京都産業大学教授は、「日本人にはノーベル賞に比べ、フィールズ賞があまり知られていない。受賞者はもっと評価されていいのではないか」と語っている。

前述のようにノーベル賞の自然科学系が3部門しかないことから、分野の違う科学者はノーベル賞と縁がない。このためお膝元であるスウェーデンには、ノーベル賞を補完する意味合いの賞がある。1982年から毎年、受賞者を選んでいる「クラフォード賞」だ。


 賞の選考は、ノーベル物理学賞と化学賞を選ぶスウェーデン王立科学アカデミーが責任を負い、「天文学・数学」「地球科学」「生物科学」(環境、進化など)の3分野から順番に受賞者を選出している。ほかに、賞の財源を出資してくれた資産家が関節炎に苦しんでいたことから、関節炎の研究で画期的な進歩があった場合には賞の対象になる。

 日本人では2009年に、元大阪大学総長の岸本忠三博士、平野俊夫博士がともに関節リウマチの新たな治療薬開発の業績で、15年には国立遺伝学研究所の太田朋子博士が進化生物学の新しい理論の提唱で受賞している。17年には坂口志文しもん・大阪大学特任教授が特殊な免疫細胞「制御性T細胞」を発見した業績で受賞に輝いた。


 一方、同じスウェーデンで「森のノーべル賞」と呼ばれる「マルクス・バーレンベリ賞」を15年に受賞したのは、磯貝明・東京大学農学部教授ら師弟3人だ。セルロースナノファイバーという木質の特殊繊維を開発した業績が評価されての受賞だった。

 森林科学や木材科学の基礎研究を対象にした同賞は、民間財団の賞であるものの、賞金が3000万円にのぼり、式典にはスウェーデン国王が出席するなど、「もてなし」ぶりからしてノーベル賞に引けを取らない。ノーベル賞がカバーしきれない学問分野の優れた研究成果に光を当て、ノーベル賞を補完していると言っても過言ではあるまい。

それぞれの国・地域にある“ノーベル賞”

 世界を見渡せば「○○のノーベル賞」は様々ある。「東洋のノーベル賞」「台湾のノーベル賞」を目指すとされるのが、2014年に台湾の実業家が創設した「唐奨」だ。持続可能な開発、バイオ医薬科学、中国学、法による支配の4部門があり、第1回(14年)のバイオ医薬科学部門の受賞者には、本庶ほんじょ佑たすく・先端医療振興財団理事長が米国人科学者とともに選出されている。本庶氏はがん免疫治療の新薬を開発し、がん治療に新しい道を開いた。賞金は約1億8000万円とビッグで、本家ノーベル賞の約1億2500万円よりも高額だ。

2017年のブレイクスルー賞の「生命科学賞」に決まった森和俊・京都大教授
2017年のブレイクスルー賞の「生命科学賞」に決まった森和俊・京都大教授
 台湾の「唐奨」の賞金をも上回り、金額で突出しているのが、グーグルの創業関係者ら米露の資産家らによって創設された「ブレイクスルー賞」だ。賞金は約3億4000万円。12年に「基礎物理学賞」の顕彰からスタートした同賞は、今や「生命科学」「数学」も合わせた計3部門を有し、英科学誌ネイチャーからは「21世紀のノーベル賞」、科学者の間では「シリコンバレーのノーベル賞」などと評されている。この賞を受賞した科学者が後にノーベル賞を受賞することが多いことから、「本家ノーベル賞の前哨戦」とも言われている。


 17年の生命科学賞には、細胞内小器官の研究で知られる森和俊・京都大学教授らが決まった。森氏は国際的な科学賞をいくつも受賞し、ノーベル賞の有力な候補者だ。

 16年にノーベル生理学・医学賞に輝いた大隅良典・東京工業大学栄誉教授は、ノーベル賞決定前にブレイクスルー賞内定の連絡を受けていた。大隅氏は16年12月、ノーベル賞の授賞式に向けて日本を出国したが、まず米国シリコンバレーを訪ねてブレイクスルー賞の授賞式に出席し、その後にスウェーデンに移動した。まさに両賞の“近接ぶり”がうかがえるエピソードだ。大隅氏は17年、学生を支援する奨学金と基礎研究に助成する財団を設立したが、その資金は、ノーベル賞とともにブレイクスルー賞の賞金が原資となったという。


2016年のブレイクスルー賞授賞式で、喜びを語る大隅良典・東京工業大学栄誉教授
 日本にも、国際的な評価を得ている賞がある。

 「日本版ノーベル賞」を目指し、パナソニックの創始者である故・松下幸之助氏の発案で1985年に誕生した「日本国際賞」だ。「物理・化学・情報・工学」と「生命・農学・医学」の2領域に分かれ、賞金は各5000万円。既にノーベル物理学賞を受賞していた江崎玲於奈・横浜薬科大学学長に贈った事例(1998年)もあるが、例年の傾向をみると、いわゆる「ノーベル賞の候補者」として下馬評にのぼる科学者が選ばれることが多い。

 実際、2007年春には巨大磁気抵抗の研究でドイツ人のペーター・グリュンベルグ博士が日本国際賞を受賞し、同じ年の12月にノーベル物理学賞を受賞した例もある。近年では鉄系超電導の研究で名高い細野秀雄・東京工業大学教授や、コレステロールを下げる物質を発見した遠藤章・東京農工大学特別栄誉教授らが同賞の栄誉に輝いている。

 科学分野からは離れるが、「アジアのノーベル賞」として有名なのが、フィリピンの非営利組織が運営する「マグサイサイ賞」だ。報道・芸術表現から国際理解・平和活動、社会奉仕まで様々な対象分野があり、日本からは映画監督の黒沢明氏や水俣病を告発してきた作家の石牟礼道子氏、パキスタン、アフガニスタンの医療支援・インフラ整備に尽力する中村哲医師など、各界から多数の受賞者が出ている。17年は、アンコールワット遺跡の修復保存活動に尽くした石澤良昭・元上智大学学長に賞が贈られた。

出てこい「二冠」科学者

厳粛な雰囲気に包まれるノーベル賞の授賞式

 こうして見ると、日本人は大いに活躍していることがわかる。


 資源の乏しい日本は以前から科学技術立国を大目標に掲げ、「科学の一流国になる」のはある意味、悲願でもある。ノーベル賞の受賞者数がその国の科学技術力を計る指標の一つであることは論をまたないが、それだけではない。一般市民に科学になじみを持ってもらえるよう、ユーモア精神を忘れないのも、科学者の大切な資質と言える。

 この視点によると、「人を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」を顕彰する賞で、パロディー・ノーベル賞とも言われる「イグ・ノーベル賞」の意義も大きい。17年も北海道大学や慶応大学の研究者が、メスなのに「男性器」を持つ昆虫を発見した業績で生物学賞を受賞した。

 これで日本人の受賞は11年連続になり、世界に誇るべき堂々たる成果だといえよう。その中には、中垣俊之・公立はこだて未来大学教授のように微生物の粘菌を使った別々の研究で2度受賞に輝いた「つわもの」もいる。ならば今後は、「本家」と「イグ」をダブル受賞する日本人科学者に登場してほしいものだ。

 ノーベル賞とイグ・ノーベル賞の両方に輝く研究者……。「そんな人いるの?」と思うかもしれないが、実は過去に1人だけいる。


ユーモアたっぷりに行われる「イグ・ノーベル賞」の授賞式

 2000年に「カエルの磁気浮上」という研究でイグ・ノーベル賞を受賞したロシア生まれのオランダ人科学者アンドレ・ガイム博士(英マンチェスター大教授)は、10年に「炭素新素材グラフェン」の研究でノーベル物理学賞を受賞している。

 余談だが、ガイム博士のノーベル賞の受賞業績「グラフェン」は、日本と少しばかり因縁がある。「炭素新素材グラフェン」は、飯島澄男・名城大学終身教授が1991年に発見した筒状の炭素素材カーボンナノチューブ(CNT)と同じ研究領域になる。炭素新素材といえば、球状の「フラーレン」発見者が96年にノーベル化学賞を受賞しており、飯島博士のCNTもノーベル賞の期待があった。しかし、ふたを開けてみると、飯島博士の発見よりも後に研究成果を発表したガイム博士の方がノーベル賞に決まった。当時の日本では、「先を越された」という受け止め方もあった。

 いずれにしても、炭素新素材をめぐるノーベル賞レースで日本発CNTの先を行き、おまけに、イグ・ノーベル賞まで受賞しているスーパー・サイエンティストは、日本人がまだ到達しえない高みにいることは確かだ。

 「科学を楽しむ余裕のある社会であってほしい」。大隅良典・東京工業大学栄誉教授は、今でもそう言い続ける。賞は違えど「イグ」受賞者もまた、同じ思いを抱いている。14年に「バナナの皮が滑る理由を科学的に解明した業績」でイグ・ノーベル物理学賞を受賞した馬渕清資・北里大学教授(現名誉教授)は、同大学の広報誌で次のような心情を吐露している。「受賞が、多くの人に笑顔を届け、科学の面白さを伝えるきっかけになったらうれしい」。これまでの「イグ」受賞実績と、近年のノーベル賞受賞者の増加を考え合わせれば、日本から「第二のガイム博士」が出ても不思議ではない。「その日」が来るのを楽しみに待ちたい。


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森重文(京都大学教授) 平成2年(1990年)フィールズ賞受賞、平成2年文化功労者

1990 08 21

祝! フィールズ賞を受賞 森重文 京都大学数理解析研究所教授 「3次元の代数多様体の極小モデル証明」


(大学4年生の頃の「学問的空気」、見聞を広める「就活」に、「院試」に、「先輩」に・・・いろいろ忙しい。)

 森 重文(もり しげふみ、1951年(昭和26年) 2月23日 - )は、日本の数学者。理学博士(京都大学、1978年)、京都大学名誉教授。専門は代数幾何学における双有理幾何学。代数幾何学での業績により1990年にフィールズ賞を受賞。
名古屋大学教授、京都大学数理解析研究所教授、所長、名古屋大学特別教授、京都大学高等研究院特別教授、所長を歴任。ハーバード大学、プリンストン高等研究所、マックス・プランク研究所、コロンビア大学など、海外での研究経験も豊富であった。数学分野での国際的な協力を行う非政府組織であり、国際数学者会議の主催団体である国際数学連合の総裁にアジア人としては初めて選出された。愛知県名古屋市出身。

業績
「接束が豊富なら射影空間である」というハーツホーンの予想を解決した論文は、代数多様体の構造論における最初の一般的な定理として歴史に刻まれるものであり、そこで開発された証明の技法がさらに洗練され「端射線の理論」となった。これは代数多様体および有理写像の構造の研究に有力な手段を与えるもので、これにより2次元の壁を乗り越えて高次元代数多様体の構造を解明することが可能になった。森理論の発表、3次元Fano多様体の研究など高次元代数多様体の研究に新しい視点を提供した。これらの業績により、1983年のワルシャワでのICMの招待講演に招聘された。さらに極小モデルの存在を3次元の場合に示すことに成功し、1990年に京都で開かれた国際数学者会議でフィールズ賞を受けた。


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逸話

「数学のたのしみ」で、森重文氏 の回想録が出ていた。中・高校時代から大学卒業後までの森氏の数学とのかか わりが語られていて、そこには恐るべきことが極めてさりげなく書かれている。 例えば、大学3回生ぐらいの頃、森氏は当時京大の助教授をされていた土井公二先生のところに入りびたり、「代数をやりたい」と申し出た。で、土井公二先生は、 将来代数をやるにはこの本を読めと、色々紹介されたという。そこまではいい。 しかし、それからが恐ろしい。1~2ヵ月後読み終わりましたと土井公二先生を訪ね ると、また別の本を紹介される。そういう事が何回か繰り返された。結局それ は将来代数幾何をやるにも数論をやるにもどちらにも必要な内容だったという。 どういう本なのか土井公二先生に聞いたことがある。「数学者アンドレ・ヴェイユ(1906~1998)が書いた「Basic Number Theorem」や主著に三部作『代数幾何学の基礎』(1946 )、『アーベル多様体と代数曲線』(1948)、『代数曲線とそれに関連する多様体』(1948 )など、らしい。数学の専門書を1~2ヵ月で読破するのはマトモではない!(定期試験のやっつけ勉強とは訳が違う。)回想録にも登場する某先生が他の所で書いていたが、学生時代の森氏に対しては「数学書を読むのが 異常に速いという印象を持った」そうである。この回想録には、他にも恐ろしい話が随所に見られるが詳細は省略する。

森重文氏「私の受験の頃は東大紛争で東大入試が無かった。京大教養部も封鎖。京大の入学式もは、全共闘の連中が突入してきて1分で終わった。同年十月に教養部授業の再開した。そのような時期であった」
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森重文氏「2回生後期からは、土井公二先生の代数学の講義。朝行くとまず土井先生の研究室に行く。先生との日常的なやり取りの中で、代数、幾何、数学の事が少しずつわかるようになってきた。この頃丸山正樹先生にも出会った」
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森重文氏「助手時代、土井先生にSeveriの問題を教えてもらい、それを解決して博士論文を作成。当時はこのようなキャリアが許された。ある意味鷹揚だった。その後、ハーツホーン予想を隅広先生と共同研究。アナログとデジタルが融合できたという印象」
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Q「代数幾何を専攻すると決めた理由、例えば解析などに心が揺れなかったのか」森重文氏「整数論と代数学かで悩んだ。土井先生は整数論の先生。『代数幾何の基礎』という本を進められ、二回生くらいで読み終え、先生のところに行くと次の本、また次の本と読み進めた」
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1969年に東京大学の入試が中止されたため、京都大学に進んだ。このためフィールズ賞受賞時は「あのとき東大に進んでいたらフィールズ賞受賞はなかっただろう」と『科学朝日』で報じられた。
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学生時代、指導教授からある数学書を薦められると1~2ヶ月ほどで「読みました」と戻って来てしまい、次の数学書を薦められてはまた同じことを繰り返した。「数学書を読むのが異常に速い」学生として強烈な印象を与えていたという。
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大学時代は全問正解しても80点しかくれない教授の試験で120点を取り続けた。
『大学への数学』という受験雑誌の学力コンテストで1年間ほぼ連続満点を続けた伝説の人となり、編集部が森君の答案を楽しみにしていた。
東京大学物性研究所教授の高田康民は、京大では数学志望だったが、同級生の森重文と比べて自分の数学的才能に自信を持てなくなり、翌年東大に入学し直し、物理学志望に変更した。
高校の時に大学の内容を進んで学んでいたりはしていなかった。大学での数学に触れたのは大学に入ってからである。
広中平祐は「自分は鈍才だが、森君は天才」という。
謙虚な人柄で、「3次元代数多様体における極小モデルの存在証明」のテーマで同賞を受賞したことについて「応用がものすごく広がったが、私が貢献したのはごく一部。周りの皆さんのおかげ」という。

学生時代、指導教授からある数学書を薦められると1~2ヶ月ほどで「読みました」と戻って来てしまい、次の数学書を薦められてはまた同じことを繰り返した。「数学書を読むのが異常に速い」学生として強烈な印象を与えていたという。
教えていた数学の教師が、高校卒業後も『彼はやがてノーベル賞をとる』と言い続けていた。
フィールズ賞受賞の4年前に他の分野で既にフィールズ賞候補になっていてその時は取れなかったが、競争相手が多いメジャーな別の分野を新たに研究して、フィールズ賞を受賞した。
天才伝説については、まだ京大の助手の頃から既に轟き渡っていて、学生は「森先生は今は『重文(重要文化財)』だけど、いつか国宝になるんだろうな。『森重文』改め『森国宝』!なーんてね」みたいな冗談を言い合っていた。

日本の数学者
【今日の数学者】2月23日はガウスの命日であり、志村-谷山予想の志村五郎先生のお誕生日であり、フィールズ・メダリストの森重文先生のお誕生日です。

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生誕 1951年2月23日
日本の旗 日本、愛知県名古屋市
国籍 日本の旗 日本
研究分野 数学
研究機関 京都大学
名古屋大学
出身校 東海中学校・高等学校
京都大学
博士課程
指導教員 永田雅宜
主な業績 代数幾何学
影響を
受けた人物 広中平祐
主な受賞歴 フィールズ賞(1990年)
コール賞(1990年)

学位論文
森重文『The endomorphism rings of some abelian varieties』京都大学〈博士論文(乙第3526号)〉、1978年3月23日。日本語題名『幾つかのアーベル多様体の自己準同型環』
著書
森重文『双有理幾何学』岩波書店〈岩波講座現代数学の展開第16巻〉、1998年、ISBN 4000106538。
Janos Kollar、森重文『双有理幾何学』岩波書店、2008年、ISBN 9784000056137。


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略歴
1969年 - 東海高等学校卒業
1973年 - 京都大学理学部卒業
1975年
京都大学大学院理学研究科修士課程修了
京都大学理学部助手
1977年 - ハーバード大学助教授(1977-1980年)
1978年
京都大学より理学博士号
ハーツホーン予想を解決 (ハーバード大学滞在中)
1980年 - 名古屋大学理学部講師 ハーバード大学、プリンストン高等研究所、マックス・プランク研究所の研究員を併任
1982年
端斜線の理論を発表
名古屋大学理学部助教授
1985年 - コロンビア大学客員教授(1985-1987年)
1986年 - 3次元の代数多様体の極小モデルの存在証明に成功
1988年 - 名古屋大学理学部教授
1990年 - 京都大学数理解析研究所教授
1999年 - 国際数学連合副総裁(1999 - 2002年)
2010年 - 名古屋大学特別教授
2011年 - 京都大学数理解析研究所所長( - 2014年)
2015年 - 国際数学連合総裁( - 2018年12月)
2016年
京都大学高等研究院院長
京都大学名誉教授

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受賞・講演歴
1983年
日本数学会彌永賞 - 代数多様体の研究
ICM招待講演(ワルシャワ)
1984年 - 中日文化賞 - 代数幾何学の研究、とくにハーツホーン問題の解決
1988年
日本数学会秋季賞 - 代数多様体の極小モデル理論(川又雄二郎との共同受賞)
井上科学振興財団井上学術賞 - 高次元代数多様体の研究、特に3次元極小モデルの存在証明
1990年
ICM全体講演(京都)
国際数学者会議フィールズ賞
アメリカ数学会コール賞代数部門 - 代数多様体の分類。特に論文 Flip theorem and the existence of minimal models for 3-folds に対して
日本学士院学士院賞- 代数多様体の分類理論の研究(飯高茂、川又雄二郎との共同受賞)
文化功労者
1992年 - 米国芸術科学アカデミー外国人名誉会員
1998年 - 日本学士院会員
2004年 - 藤原科学財団藤原賞 - 高次元双有理幾何学理論の建設
2016年 - ロシア科学アカデミー外国人会員
2017年 - 米国科学アカデミー外国人会員
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参考

1990年8月21日 「3次元の代数多様体の極小モデル証明」 フィールズ賞を受賞 森重文 教授


参考


京都 VSOP も祝! 1990年8月21日 「3次元の代数多様体の極小モデル証明」 フィールズ賞を受賞 森重文 教授

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参考


<論文のマップあれば・・・>「3次元の代数多様体の極小モデル証明」 フィールズ賞を受賞 森重文 教授
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京都賞 受賞記念講演 黒澤 明(思想・芸術部門映画・演劇)、アンドレ・ヴェイユ(基礎科学部門 受賞(数学 整数論・代数幾何学など))国立京都国際会館へ (大学の研究室 教授らとも、京大の友人とも)ame


あの頃考えていたこと(学問編)メモvol.2  数学 整数論(志村理論)を知る 「数を読む」Jugem


あの頃考えていたこと(学問編)メモvol.1  数学 整数論(志村理論)を知る 「数を読む」 se


数学 整数論「素数の宇宙の世界」 Dream of G. Shimura? (志村理論:志村多様体・志村ゼータ関数・志村曲線・志村モデル・志村系リフト・・) 【今日の数学者】2月23日生 志村五郎 li


1993年6月23日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を宣言 fc2


1994年9月19日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を修正 li


1995年2月13日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明(完成)se


感動!数学の歴史 「350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論]) ame



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