つれづれなるままの数学(算数)素数GPSの周辺 iPhoneとAndroid 366 aps

数学(算数)・素数にまつわる話題から、やや専門的な「整数論」「数論幾何学」「代数幾何学」のような話題。「フェルマーの最終定理」、「ポアンカレ予想」の解決の「証明」の理解など、夏休みの研究の話題など、小中高から一般までの話題、「ABC予想」、「リーマン予想」の周辺など 「志村多様体」「保形表現」

2019年05月

数学(算数)・素数にまつわる話題から、やや専門的な「整数論」「数論幾何学」「代数幾何学」のような話題。「フェルマーの最終定理」、「ポアンカレ予想」の解決の「証明」の理解など

エピソード 伝説メモ 天才数学者・志村五郎の天皇制論?? / 「フェルマーの最終定理」(「谷山・志村予想」(=志村予想))を感じたい人の書籍など

エピソード 伝説メモ 現実! 天才数学者・志村五郎の天皇制論??  (志村五郎先生のご冥福をお祈りします。) /  「フェルマーの最終定理」(「谷山・志村予想」(=志村予想))を感じたい人の書籍など
 

「ヴェイユは、まぎれもなく、一等星でした」「研究テーマは、まだ、まだ・・・ある」

志村五郎 スケッチ700ss

天才数学者・志村五郎の天皇制論??(志村五郎先生のご冥福をお祈りします。)
 

「〔一九五九年頃〕東大の教養学部の数学教室で、二十代から五十代の数学教師達数人が天皇制はいつまで続くだろうかと議論していた。いつまでも続けばよいと思っている者はひとりもいなかった」



共産党に読ませたい天才数学者・志村五郎の天皇制論

左翼と言えば天皇制に反対するのが普通だった時代は過去のもの、今では日本共産党も新天皇陛下即位にまつわる様々な議決に反対しなくなった。評論家の呉智英氏が、天才数学者の志村五郎による天皇制論について解説する。

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 五月十日付朝日新聞は「陛下即位の賀詞議決 共産党も出席・賛成」と報じている。共産党は一九九〇年秋の新帝即位礼ではまだ賀詞に反対していたのに。ほんの一ミリずつの後退だから目立たないが、気づいたら百キロも逃走していたようなものだ。天皇制打倒を叫んで投獄されたり虐殺されたりした先人に、どう申しわけするのだろう。あるいは、あと五十キロも後退してから反転攻勢に出るつもりなのか。共産党以外の過激派や市民派も小規模な集会やデモをやっている程度だ。左翼の衰退は歴然たるものになっている。

 私は天皇制擁護論者ではない。私の理想とする政治は哲人政治、すなわち「徳による階級制」(小島祐馬『中国思想史』)だからである。これは「世襲を防ぐ作用」を有する。徳が血統によって受け継がれるはずがないからだ。ましてや徳も知性も問われない民主主義的平等思想など、私が最も嫌悪するものである。

 詳論は機会を改めて述べるとして、産経新聞の一面コラム「産経抄」(五月六日)で面白い本を知った。五月三日、八十九歳で亡くなった数学者志村五郎『鳥のように』というエッセイ集である。

「志村さんは、中国の古典文学に関する研究書など、数学とは関係のない原稿も数多く残している」という。調べてみると『中国説話文学とその背景』という準学術著作もある。その志村が「戦後の論壇に大きな影響力を持っていた政治学者」丸山真男の「歴史認識の誤りや教養の欠如を批判していた」とある。

『鳥のように』にその批判文が収められていると知り、一読してみた。確かに、丸山は支那古典に想像以上に暗かったり、朝鮮戦争の認識が片寄っていたりと、もっともな批判だ。既に保守系の評論家も指摘している通りである。

 しかし、同書には「夜明け前」という興味深い一章もあった。

「仮に開国佐幕派が尊王攘夷派を打ち負かしても、明治の天皇制政府より悪かったとも考えられない」「御真影の配布とその礼拝、教育勅語奉読、君が代斉唱などの愚劣な習慣とその強制はすべて明治時代に始まった」「教育勅語の始めの部分など『何だと、ふざけるな』と言いたくなる」

 続いて、孟子は革命思想であるから日本では孟子が疎まれたのではないかと考察し、明治維新では「奇妙な天皇の概念を作って国民に強制した」「そんな維新などない方がよかった」と言う。

 過激だなあ。さらにこうだ。

「〔一九五九年頃〕東大の教養学部の数学教室で、二十代から五十代の数学教師達数人が天皇制はいつまで続くだろうかと議論していた。いつまでも続けばよいと思っている者はひとりもいなかった」

 共産党に読ませてやりたい。でも、共産党は産経新聞が嫌いだ。いや、待てよ、産経の中に工作員が入っていて、丸山真男批判を隠れ蓑に過激な反天皇制論を…って、これじゃ陰謀論か。ともあれ天才数学者志村五郎は興味深かった。
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志村五郎先生 エピソード 伝説メモ(抜粋)
(数学の大統一に挑む - エドワード・フレンケル 単行本 ¥2,376    ラクランズ哲学(=<「志村理論の哲学」である。)


サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』の翻訳をしていたときのこと、プリンストンの志村先生と少しメールでやりとりをし、さらに集中講義のために京都大学にいらした際には直接お会いする機会を得たのだった。

今から述べるのは、そのとき(本題を離れて、完全にオフレコ気分の雑談のとき)に出た話題である。そんな会話をこのような場に書いてよいものか少し悩んだが、書いてはいけないと考える積極的理由もないように思うので、書くことにする(志村先生、お許しを!)。

わたしは志村先生に、ロバート・ラングランズをどう評価なさるかとお尋ねした。すると先生はさらっと、「(ラングランズは)旗振りしただけでしょう」とおっしゃったのだ。ここで急いで補足するが、時代に先駆けて立ち上がり、旗を振るというのは誰にでもできることではない。

フレンケルの今回の講義でも、もしかするととんでもない大間違いかもしれない洞察を述べることへのラングランズの不安が、ヴェイユに宛てた手紙(実質的には論文)への添え書きに、はっきりと表れていた。旗を振ることは、それはそれ自体として、すごいことなのだ。

ラングランズに対する志村先生の評価は、志村先生ご自身の数学との向き合い方、あるいは数学観のようなものと密接に結びついているはずのものである。このコメントは、志村先生の口から出たからこそ凄みがあるのであって、そんじょそこらの者が口にすれば、薄っぺらなセリフにしかならないだろう。

とはいえ、わたしが強い印象を受けたのは、ラングランズについての先生のコメントではない。わたしはそれに続けて、「では、ヴェイユはどうですか」とお尋ねした。すると先生は、一瞬間をおいてから、ひとことひとこと区切るように、力を込めてこうおっしゃったのだ。

ヴェイユは数学界における一等星

「ヴェイユは、まぎれもなく、一等星でした」。つまりヴェイユは、数学史上に燦然と輝く一等星のひとつだというのだ。わたしの目と耳には、このときの志村先生が焼き付いている。この先生の言葉の重みを自分のものとして実感することは、数学者ならぬ身のわたしには永遠にできないだろう。けれども、今でも翻訳の仕事でヴェイユに出会うと、この人は志村先生にあのように言わせた人物なのだと、襟を正してしまうのである。


白熱教室の講義をより深く理解するための一冊(上の書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
実はこのとき、わたしはさらに続けて、「では、志村先生ご自身は何等星でしょうか?」とお尋ねしたのだが、この問いに対する先生の答えは、みなさんのご想像にお任せすることにしたい。
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参考

アンドレ・ヴェイユ 京都賞 基礎科学部門 受賞(数学 整数論・代数幾何学など)国立京都国際会館 (大学の研究室 教授らとも、京大の友人とも)

京都賞 受賞記念講演 黒澤 明(思想・芸術部門映画・演劇)、アンドレ・ヴェイユ(基礎科学部門 受賞(数学 整数論・代数幾何学など))国立京都国際会館へ (大学の研究室 教授らとも、京大の友人とも)
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「フェルマーの最終定理」のカギは、「谷山・志村予想」である。

注:「谷山・志村予想」は、一般的に日本で語られているが、本来は、「志村予想」である。
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フェルマーの最終定理 【著者】サイモン•シン(青木薫 訳) 【発行】新潮社(新潮文庫) / 「解決!フェルマーの最終定理 現代数論の軌跡」加藤和也著、日本評論社

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文系用読者:「教育者」としてのあの頃の感覚として読む
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フェルマーの最終定理 【著者】サイモン•シン(青木薫 訳) 【発行】新潮社(新潮文庫)

整数に関する問題は、問題を理解するのはやさしいが解くのはとてつもな く難しいことが多い。この本の表題ともなっている「フェルマーの最終定理」 の証明もそのような整数問題の1つであり、アマチュア・プロを問わず 300 年もの間、多くの数学者の挑戦を退けてきた問題である。1995 年最終的に 証明を成し遂げた勝者はアンドリュー・ワイルズという数学者であった。し かし、その証明への取り組みは試練に満ちており、7年間の隠密行動、そし て1度は証明できたと発表して、その後証明に穴があることがわかり1年余 りの間、公にさられた状態での穴埋め作業の末ようやく証明完了というドラ マが書かれています。谷山、志村、岩澤、肥田といった日本人数学者もからみ、困難な問題にチャレンジする人間模様を描いた物語として、一読を。
志村五郎 先生の 書籍 と 物語ss


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産経新聞の一面コラム「産経抄」(五月六日)

数学者の藤原正彦さんは、大学院時代の指導教官から厳命されたそうだ。「フェルマーだけはやるな。数学人生終わりだよ」(『世にも美しい数学入門』ちくまプリマー新書)。
▼「(Xのn乗)+(Yのn乗)=(Zのn乗)でnが2より大きい自然数の解はない」。17世紀のフランスの法律家フェルマーは、「証明法をみつけた」とだけ本に書き残していた。この「フェルマーの最終定理」にどれほど多くの数学者が挑み、敗れ去ってきたことか。
▼360年後の1994年、米プリンストン大のアンドリュー・ワイルズ教授がようやく証明に成功する。そのカギとなったのが、「谷山・志村予想」と呼ばれる楕円(だえん)曲線に関する理論である。
▼谷山豊さんと志村五郎さんは、東大数学科で学術雑誌の貸し借りをきっかけに知り合った。谷山さんは31歳で謎の自殺を遂げる。当時プリンストン大に移っていた志村さんが、谷山さんの研究を引き継いだ。
▼藤原さんによれば、奇妙奇天烈で豪快だった谷山さんの理論を、志村さんが10年くらいかけて美しい姿に仕上げた。「谷山は正しい方向に間違えるという、特別な才能に恵まれていた」。親友を評する言葉は、なんとも味わい深い。フェルマーの定理の証明より、志村さんたちの予想の方が、数学への貢献は大きい、との見方さえあるそうだ。
▼志村さんは、中国の古典文学に関する研究書など、数学とは関係のない原稿も数多く残している。その一つが「丸山真男という人」と題したエッセーである。戦後の論壇に大きな影響力を持っていた政治学者に対して、歴史認識の誤りや教養の欠如を批判していた。今月3日、89歳で世を去った天才数学者の頭の中はどうなっていたのだろう。
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数学者・志村五郎の死
 
5月3日、数学者の志村五郎プリンストン大学名誉教授が亡くなられたというニュースが流れた。志村五郎と言えば、フェルマーの大定理の証明においてもキーになった「谷山・志村予想」が有名であり、数学を学んだことのある学生ならその名を一度くらいは聞いたことがあるはずだ。
しかし、今回驚かされたことは、志村氏の死去のニュースがヤフーニュースで流れていたことだ。僕もヤフーニュースで志村氏の死を知った。いくら数学関係者の中で有名だったとは言え、ヤフーニュースで流れる程世間の注目を浴びているとは考えもしなかった。ヤフーニュースでこのニュースを見た人のうちどれくらいの人が興味を持ったのかはわからないが、数学研究というものが少しでも市民権を得られればと強く思う。ちなみに、谷山・志村予想のもう一人、谷山豊氏は、若くして自死をされている。
本屋の数学書コーナーに行くと、谷山豊全集というものが並んでいる。数学関係の全集とは一般の人にはなじみがないかもしれないが、全集が出されるほど谷山氏は偉大な数学者であった。そして志村氏も同様に偉大な数学者である。偉大な数学者や物理学者の研究に対しては、コレクテッドペーパーやコレクテッドワークスと言われる論文集が出されることがある。これらの論文集は偉大な学者の研究が一望できる非常に便利なものである。もしかしたら、これから志村氏の論文集も出るのかもしれない。と思ってAmazonで確認してみると、既に志村氏のcollected papersが出版されていた。やはり偉大だ。

注: 「谷山・志村予想」は、一般的に日本で語られているが、本来は、「志村予想」である。
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 志村五郎 ウィキペディア(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/志村五郎
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理系用読者:「数学者」としてのあの頃の感覚として読む
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【書名】「解決!フェルマーの最終定理 現代数論の軌跡」加藤和也著、日本評論社
( フェルマーの大定理が解けた!―オイラーからワイルズの証明まで (ブルーバックス) 足立恒雄著 新書 )
( フェルマーの大定理―整数論の源流 (ちくま学芸文庫) 足立恒雄著 )
( フェルマーの最終定理 文庫 フェルマーの最終定理 (新潮文庫) サイモン シン(著), 青木 薫 (翻訳) 

 
1993年6月23日に、プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を宣言し、その後、証明の不備が見つかり、1年以上に苦考の末、1994年9月19日にその修正に成功したこの期間に、著者が証明の解説として数学セミナー読者向けに書いたものを集めたものである。厳密性はないが、極力丁寧に、正確に伝えようとする、著者の誠実さと、理解の深さが伝わってくる。原論文の 1. A. Wiles; Modular elliptic curves and Fermat's last theorem, 2. R. Taylor, A. Wiles; Ring theoretic properties of certain Heck algebras にも、整数論にも、非常に惹きつけられる内容だった。購入時にも読んだと思われるが、詳しく覚えていないところをみると、理解しようとはしていなかったのかもしれない。むろん、今回も十分な時間をかけて読んだとは言えないが。

以下は備忘録

「砂田利一『基本群とラプラシアン、幾何学における数論的方法』」(p.37)「ワイルス『ぼくは、フライとリベットの結果を知ったとき、風景が変化したことに気がついた。(中略)この時まで、フェルマの最終定理は、何千年間もそのまま決して解かれることがなく数学がほとんど注目することがない数論の他の[散発的かつ趣味的な]ある種の問題と同じようなものに見えていた。フライとリベットの結果によって、フェルマの最終定理は、数学が無視することのできない重要な問題の結果という形に変貌したのだ。(中略)ぼくにとって、そのことは、この問題がやがて解かれるであろうと言うことを意味していた』」(p.67)「清水英夫著『保型関数I, II, III』、志村五郎著『Introduction to the theory of automorophic functions』、Knapp『Elliptic curves』、河田敬義著『数論I, II, III』、藤崎源二郎・森田康夫・山本芳彦著『数論への出発』、上野健爾著『代数幾何学入門』、J.H.シルヴァーマン・J.テイト著(足立恒雄〔ほか〕訳)『楕円曲線論入門』、土井公二/三宅敏恒著『保型形式と整数論』、肥田晴三著『Elementary theory of L-functions and Eisenstein series』、吉田敬之著『保型形式論: ─現代整数論講義─』、N.コブリンツ著(上田勝〔ほか〕訳)『楕円曲線と保型形式』」(p.123,4)「田口雄一郎さんの手紙に『Deligne さんの家はこの道の始まりのところ、森の入り口にあります。Deligne さんといへども、森羅万象の真理の最奥に至る道のほんの入口のところにゐるに過ぎないといふ、これは自然による卓抜な比喩であると思われます。ところが、恐ろしいことに彼の子供たちは毎日この道を通って森のむかうの学校に通ってゐるらしいのです。』とありました。フェルマーからの350年は大進歩でしたが、人類が続いてゆけば、それは今後何千年の数学の序曲であり、何段も何段も自然の深奥への新しい段階があることでしょう。」(p.239)「ガウス『どのように美しい天文学上の発見も、高等整数論が与える喜びには及ばない』ヒルベルト『数論には古くからの問題でありながら、今日も未解決のものが少なくない。その意味で、多くの神秘を蔵する分野であるが、他方、そこで展開される類体論のような、世にも美しい理論がある』」(p.245)「岩澤健吉『代数体と、有限体上の一変数関数体は、どこまでも似ていると信じてよい』」(p.246)「志村五郎は『整数論いたる所ゼータ関数あり』と述べたが今その言葉に『ゼータ関数のある所 岩澤理論あり』と続けて考えたい」(p.261)『ゼータ関数のある所 肥田理論あり』ともいえる。


「フェルマーの最終定理」を理解したい人(参考 書籍紹介)

N.コブリンツ著(上田勝〔ほか〕訳)『楕円曲線と保型形式』
土井公二/三宅敏恒著『保型形式と整数論』
志村五郎著『Introduction to the theory of automorophic functions』
J.H.シルヴァーマン・J.テイト著(足立恒雄〔ほか〕訳)『楕円曲線論入門』
Knapp『Elliptic curves』
河田敬義著『数論I, II, III』
藤崎源二郎・森田康夫・山本芳彦著『数論への出発』
上野健爾著『代数幾何学入門』
肥田晴三著『Elementary theory of L-functions and Eisenstein series』
清水英夫著『保型関数I, II, III』
吉田敬之著『保型形式論: ─現代整数論講義─』
砂田利一著『基本群とラプラシアン、幾何学における数論的方法』

原論文の
 1. A. Wiles; Modular elliptic curves and Fermat's last theorem, 
 2. R. Taylor, A. Wiles; Ring theoretic properties of certain Heck algebras

(一部、数学では、一般向けでないものもあるので注意を)

論文集 (志村五郎)
Collected Papers. I: 1954-1965 (Hardcover ed.). Springer. (2002). ISBN 978-0-387-95406-6.
Collected Papers. II: 1967-1977 (Hardcover ed.). Springer. (2002). ISBN 978-0-387-95416-5.
Collected Papers. III: 1978-1988 (Hardcover ed.). Springer. (2003). ISBN 978-0-387-95417-2.
Collected Papers. IV: 1989-2001 (Hardcover ed.). Springer. (2003). ISBN 978-0-387-95418-9.
など

志村五郎先生の書籍(1部)ss

 
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やや専門的内容
http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/689.html

https://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~abenori/conf/20150817.html

http://www.sci.kumamoto-u.ac.jp/~narita/ss2011_proceedings.pdf

http://ntw.sci.u-toyama.ac.jp/ss2017/

http://www.ist.aichi-pu.ac.jp/~tasaka/ss2018/index.html

https://core.ac.uk/download/pdf/42026066.pdf

ワイルズによるフェルマー予想の解決にも岩澤理論は大きな役割を果たした。 また、これ以外にも日本人数学者の結果が大きく寄与している。例えば、 肥田(晴三)の理論が有効に用いられたし、解決への道筋は谷山・志村予想を 経由するものであった。 
(世間では「谷山志村予想」だが、専門家の間では、「志村予想」である。)

https://www.math.kyoto-u.ac.jp/~tetsushi/nt_seminar.html
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参考

天才数学者・志村五郎の天皇制論?? (志村五郎先生のご冥福をお祈りします。)
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https://www.youtube.com/watch?v=se7s17x39eA

https://www.nicovideo.jp/watch/sm20387050
https://www.nicovideo.jp/watch/sm20419989
https://www.nicovideo.jp/watch/sm20420156

https://www.youtube.com/watch?v=i0UTeQfnzfM

1993年6月23日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を宣言

1994年9月19日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を修正

1995年2月13日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明( 完結 )

感動!「350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論])  歴史
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https://www.youtube.com/watch?v=KjvFdzhn7Dc&list=PL6PDU-7OA2gdvu3jhxo1QABgR9SGeCkCb



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数学の「整数論(志村理論)」と「暗号理論」

志村五郎先生「誕生日」の「素数の世界」


知の``継承''が生む創造力 (志村 五郎 米プリンストン大学名誉教授) 2001年11月8日 / 志村五郎先生の「誕生日の素数」のダビンチコードは?「19300223、209563、 691、55787、313289、23333」


大学受験必読、数学者・志村五郎の遺した言葉 (ちくま学芸文庫 「数学をいかに使うか」(2010) 「数学の好きな人のために」(2012) 「数学で何が重要か」(2013) そして「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊)


NHK (今日、今晩放送! 全4回)数学ミステリー白熱教室 ラングランズ・プログラムへの招待 数学を統一する 数学の理論(特に対称性)の後!「楕円曲線」「表現論」「保型形式論」・・・


数学をいかに教えるか 志村五郎著 (ナンセンスな教育を斬る)


<数学の女王 「整数論 」 >数学者・志村五郎はなぜ東大を去ったか? 丸山眞男~戦後進歩的知識人との決別の理由/志村理論の始まりは・・・「すべての楕円曲線はモジュラーである」

東大受験必読、数学者・志村五郎の遺した言葉 (ちくま学芸文庫 「数学をいかに使うか」(2010)「数学の好きな人のために」(2012)「数学で何が重要か」(2013) そして「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊)


京大受験必読、数学者・志村五郎の遺した言葉 (ちくま学芸文庫 「数学をいかに使うか」(2010) 「数学の好きな人のために」(2012) 「数学で何が重要か」(2013) そして「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊)


<数学 「整数論」の世界的権威> 300年来の超難問証明に貢献、志村五郎氏死去 (志村五郎先生のご冥福を、お祈りいたします。)


志村五郎氏死去=米プリンストン大名誉教授・数学(「整数論」の世界的権威)300年来の超難問証明に貢献「フェルマーの最終定理」


数学者(整数論) 志村五郎氏死去 (谷山志村予想とフェルマーの最終定理 300年来の超難問証明に貢献) 2019年 5月3日

数学者(整数論) 志村五郎氏死去 (静岡県 浜松出身) (谷山志村予想とフェルマーの最終定理 300年来の超難問証明に貢献) 2019年 5月3日

京都 VSOP 追悼 数学者(整数論) 志村五郎氏死去 (静岡県 浜松出身) (谷山志村予想とフェルマーの最終定理 300年来の超難問証明に貢献) 2019年 5月3日

300年来の超難問証明に貢献、志村五郎氏死去 (「整数論」の世界的権威)



NHK (今日、今晩放送! 全4回)数学ミステリー白熱教室 ラングランズ・プログラムへの招待 数学を統一する 数学の理論(特に対称性)の後!「楕円曲線」「表現論」「保型形式論」・・・


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数学(整数論:「志村理論」)を小学生、中学生、高校生に伝える方法? (数学の面白さ!)


6Number(シックス・ナンバー)の世界へ ようこそ!(偉人・有名人の記念日・誕生日)APS数学(APS-Math)
子供と計算
志村 五郎(しむら ごろう、1930年2月23日 - 2019年5月3日)は日本出身の数学者(整数論)。プリンストン大学名誉教授

小・中・高校生(研究課題)

素数の世界へ ようこそ! (APS素数 と GPS素数)


志村五郎先生「誕生日」の「素数の世界」


「ダ・ヴィンチ コード」 6Number (シックスナンバー) を拡張としての「対称性の理論」? 例 1930年2月23日


映画「ダ・ヴィンチ コード」(DVDでみた!) 6Numberと6Prime 「素数の暗号」(志村五郎先生「誕生日」の「素数の世界」解答)


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参考
2013 1010頃
数学者が読んでいる本ってどんな本 小谷元子(編集) 東京書籍 森重文 (著), 上野健爾 (著), 足立恒雄 (著),砂田利一 (著), 黒川信重 (著),小谷元子 (著, 編集), 益川敏英 (著), 野崎昭弘 (著), & 5 その他 など
 
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加藤文元
「ABC予想と新しい数学」

abc Conjecture - Numberphile


Popular Conjecture & Mathematical proof videos 1〜43

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https://www.youtube.com/watch?v=KjvFdzhn7Dc&list=PL6PDU-7OA2gdvu3jhxo1QABgR9SGeCkCb




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「研究テーマは、まだ、まだ・・・ある」

数学 整数論(数論幾何学など)  やってみない?
( 紙と鉛筆とネット(書籍)があれば、できる「数学」・・・)

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整数論サマースクール「構成的ガロア逆問題と不変体の有理性問題」
整数論サマースクール「多重ゼータ値」
整数論サマースクール「楕円曲線とモジュラー形式の計算」
整数論サマースクール「保型形式のp進family入門」
整数論サマースクール「志村多様体とその応用」
整数論サマースクール 「非可換岩澤理論」
整数論サマースクール 「p 進簡約群の表現論入門」
整数論サマースクール 「Stark 予想」
整数論サマースクール 「保型形式のリフティング」
整数論サマースクール 「アーサー・セルバーグ跡公式入門」
整数論サマースクール 「l 進ガロア表現とガロア変形の整数論」
整数論サマースクール 「保型 L 函数」
整数論サマースクール 「種数の高い代数曲線と Abel 多様体」
整数論サマースクール 「Diophantine Equations」
整数論サマースクール 「Hilbert 保型形式」
整数論サマースクール 「基本群と Galois 表現」
整数論サマースクール 「岩澤理論」
整数論サマースクール 「概均質ベクトル空間」
整数論サマースクール 「ゼータ関数」
整数論サマースクール 「半整数ウェイトの保型形式」
整数論サマースクール 「代数群の整数論入門」
整数論サマースクール 「楕円曲線とその Arithmetic Moduli」
整数論サマースクール 「Siegel 保型形式入門」
整数論サマースクール 「Weil 表現入門」
整数論サマースクール 「等質空間と保型形式」
整数論サマースクール 「志村多様体と保型形式」
整数論サマースクール 「アイゼンシュタイン級数について」
・・・・・・

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数学の統一理論(ラングランズ・プログラムなど 創始者は、日本人「谷山・志村予想(志村予想)」)

物理の統一理論

数学と物理の統一理論へ
そのカギは、
「素数 の 「ゼータ関数?」かも」


つづく
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志村五郎先生のスケッチ画像をよくみたら、リーマンに見えてきた・・・
リーマン予想 700

お許しを・・・・
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参考
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(個人的に、「平成30年間」に影響を受けた書籍(一部分))

平成30年の「120冊」  個人的セレクト 数学書(数理科学関係 編)

平成30年間の31冊  個人的セレクト 数学書(数理科学関係 編) 洋書(英語版)

「令和」に伝えたい数学書籍  選  平成30年間の和書・書籍「120冊」(日本語)と洋書・書籍「31冊」(英語版)

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数学「感覚や感情養うのが大事」 フィールズ賞の森氏講演

数学「感覚や感情養うのが大事」 フィールズ賞の森氏講演


 高校生に科学への関心を高めてもらおうと、数学のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を1990年に受賞した森重文・京都大高等研究院長(68)が19日、新潟市で講演した。約400人の参加者を前に、数学について「論理だけでは解けない場面がある。先へ進むには日ごろからさまざまなものを見聞きして、人間としての感覚や感情を養うことが大事だ」と語り掛けた。

 森氏は、人工知能(AI)やビッグデータなど多くの研究分野の背景に数学があると説明。「数学を知らないで生きていける世の中ではない」と指摘した上で、「全てを理解しなくてもいい。興味の持ち方をうまく見つけてほしい」と述べた。


参加した高校生からの「数学者としてのくせはあるか」との質問に対し、森氏は「考え始めると止まらず、つい夜更かししてしまうこと」と答え、会場の笑いを誘った。
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得意分野伸ばそう フィールズ賞受賞の森さん、新潟で講演


数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞を1990年に受賞した京都大学高等研究院院長の森重文さんが19日、新潟市中央区で高校生向けに講演した。森さんは子供の時に多くの欠点を抱えていたとし、「皆さんも得意不得意があると思うが、欠点も個性。得意なことを伸ばした方がいい」と勧めた。
 森さんは自身の小学生時代を「人前に出るのが苦痛で無気力。勉強はあまりできなかった」と振り返った。中学生の頃は苦手科目を無くすよう指導されたが、うまくいかなかったという。
高校で数学の魅力に目覚め、「数学が絡むと妙に積極的になり、同好会をつくったりした」。これまでの人生を振り返り「いつも順調だったわけではないが、高校時代に数学という目標を見つけたので乗り越えてこられた」と語った。

講演会は、高校生らに学問の魅力を知ってもらおうと新潟大が開催し、約450人が聴いた。参加した新潟高校理数科1年の斎藤海流さん(15)は「自分が本当に好きなものを見つけたい」と話した。

2019年5月20日
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参考 森重文 エピソード など

祝! 1990年8月21日 「3次元の代数多様体の極小モデル証明」 フィールズ賞を受賞 森重文 教授

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逸話

「数学のたのしみ」で、森重文氏 の回想録が出ていた。中・高校時代から大学卒業後までの森氏の数学とのかか わりが語られていて、そこには恐るべきことが極めてさりげなく書かれている。 例えば、大学3回生ぐらいの頃、森氏は当時京大の助教授をされていた土井公二先生のところに入りびたり、「代数をやりたい」と申し出た。で、土井公二先生は、 将来代数をやるにはこの本を読めと、色々紹介されたという。そこまではいい。 しかし、それからが恐ろしい。1~2ヵ月後読み終わりましたと土井公二先生を訪ね ると、また別の本を紹介される。そういう事が何回か繰り返された。結局それ は将来代数幾何をやるにも数論をやるにもどちらにも必要な内容だったという。 どういう本なのか土井公二先生に聞いたことがある。「数学者アンドレ・ヴェイユ(1906~1998)が書いた「Basic Number Theorem」や主著に三部作『代数幾何学の基礎』(1946 )、『アーベル多様体と代数曲線』(1948)、『代数曲線とそれに関連する多様体』(1948 )など、らしい。数学の専門書を1~2ヵ月で読破するのはマトモではない!(定期試験のやっつけ勉強とは訳が違う。)回想録にも登場する某先生が他の所で書いていたが、学生時代の森氏に対しては「数学書を読むのが 異常に速いという印象を持った」そうである。この回想録には、他にも恐ろしい話が随所に見られるが詳細は省略する。

森重文氏「私の受験の頃は東大紛争で東大入試が無かった。京大教養部も封鎖。京大の入学式もは、全共闘の連中が突入してきて1分で終わった。同年十月に教養部授業の再開した。そのような時期であった」
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森重文氏「2回生後期からは、土井公二先生の代数学の講義。朝行くとまず土井先生の研究室に行く。先生との日常的なやり取りの中で、代数、幾何、数学の事が少しずつわかるようになってきた。この頃丸山正樹先生にも出会った」
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森重文氏「助手時代、土井先生にSeveriの問題を教えてもらい、それを解決して博士論文を作成。当時はこのようなキャリアが許された。ある意味鷹揚だった。その後、ハーツホーン予想を隅広先生と共同研究。アナログとデジタルが融合できたという印象」
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Q「代数幾何を専攻すると決めた理由、例えば解析などに心が揺れなかったのか」森重文氏「整数論と代数学かで悩んだ。土井先生は整数論の先生。『代数幾何の基礎』という本を進められ、二回生くらいで読み終え、先生のところに行くと次の本、また次の本と読み進めた」
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1969年に東京大学の入試が中止されたため、京都大学に進んだ。このためフィールズ賞受賞時は「あのとき東大に進んでいたらフィールズ賞受賞はなかっただろう」と『科学朝日』で報じられた。
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学生時代、指導教授からある数学書を薦められると1~2ヶ月ほどで「読みました」と戻って来てしまい、次の数学書を薦められてはまた同じことを繰り返した。「数学書を読むのが異常に速い」学生として強烈な印象を与えていたという。
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大学時代は全問正解しても80点しかくれない教授の試験で120点を取り続けた。
『大学への数学』という受験雑誌の学力コンテストで1年間ほぼ連続満点を続けた伝説の人となり、編集部が森君の答案を楽しみにしていた。
東京大学物性研究所教授の高田康民は、京大では数学志望だったが、同級生の森重文と比べて自分の数学的才能に自信を持てなくなり、翌年東大に入学し直し、物理学志望に変更した。
高校の時に大学の内容を進んで学んでいたりはしていなかった。大学での数学に触れたのは大学に入ってからである。
広中平祐は「自分は鈍才だが、森君は天才」という。
謙虚な人柄で、「3次元代数多様体における極小モデルの存在証明」のテーマで同賞を受賞したことについて「応用がものすごく広がったが、私が貢献したのはごく一部。周りの皆さんのおかげ」という。

学生時代、指導教授からある数学書を薦められると1~2ヶ月ほどで「読みました」と戻って来てしまい、次の数学書を薦められてはまた同じことを繰り返した。「数学書を読むのが異常に速い」学生として強烈な印象を与えていたという。
教えていた数学の教師が、高校卒業後も『彼はやがてノーベル賞をとる』と言い続けていた。
フィールズ賞受賞の4年前に他の分野で既にフィールズ賞候補になっていてその時は取れなかったが、競争相手が多いメジャーな別の分野を新たに研究して、フィールズ賞を受賞した。
天才伝説については、まだ京大の助手の頃から既に轟き渡っていて、学生は「森先生は今は『重文(重要文化財)』だけど、いつか国宝になるんだろうな。『森重文』改め『森国宝』!なーんてね」みたいな冗談を言い合っていた。

日本の数学者
【今日の数学者】2月23日はガウスの命日であり、志村-谷山予想の志村五郎先生のお誕生日であり、フィールズ・メダリストの森重文先生のお誕生日です。

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生誕 1951年2月23日
日本の旗 日本、愛知県名古屋市
国籍 日本の旗 日本
研究分野 数学
研究機関 京都大学
名古屋大学
出身校 東海中学校・高等学校
京都大学
博士課程
指導教員 永田雅宜
主な業績 代数幾何学
影響を
受けた人物 広中平祐[2]
主な受賞歴 フィールズ賞(1990年)
コール賞(1990年)

学位論文
森重文『The endomorphism rings of some abelian varieties』京都大学〈博士論文(乙第3526号)〉、1978年3月23日。日本語題名『幾つかのアーベル多様体の自己準同型環』
 
著書
森重文『双有理幾何学』岩波書店〈岩波講座現代数学の展開第16巻〉、1998年、ISBN 4000106538。
Janos Kollar、森重文『双有理幾何学』岩波書店、2008年、ISBN 9784000056137。


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1990年8月21日 「3次元の代数多様体の極小モデル証明」 フィールズ賞を受賞 森重文 教授
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2013 1010
数学者が読んでいる本ってどんな本 小谷元子(編集) 東京書籍

本の街・東京神田神保町「書泉グランデ」の「数学者の書棚」フェア。本書では、2年間のブックフェア選者13人がフェアのために選んだブックリストと、そのなかでも特に思い入れのある書籍に対して、長めの紹介または短めの一言紹介をつけている。コメントの付いた書籍が233冊、ブックリストに挙がった書籍は全950冊と、広い領域をカバー。

2013 1010
森重文 京都大学数理解析研究所
解説あり
1 数学まなびはじめ 第1集・第2集 日本評論社 2006 
2 初等代数幾何講義 リード 岩波書店 1991 
3 現代代数学(3巻) 東京図書 1959 
4 石とりゲームの数理 一松信 森北出版 2003
5 復刻版 近世数学史談・数学雑談 高木貞治 共立 1996 
6 目で見る美しい量子力学 外村彰 
7 凸体と代数幾何学 小田忠雄 紀伊國屋書店 2008 
8 記憶の切繪図 七十五年の回想 志村五郎 筑摩書房 2008 
9 伝えたい大切なこと 産経新聞社編 東洋経済新報社 2006 
10 代数幾何学 広中平祐講義 京都大学学術出版会 2004 
11 可換体論 永田雅宜 裳華房 1967 役立つ 大学新書庫1層
12 集合・位相入門 松坂和夫 岩波 1968 
13 不等式 大関信雄ほか 槇書店 1967 
14 定木による作図 コンパスによる作図 スモゴルジェフスキーほか 東京図書 1964 

リストのみ
1 ヒルベルト 数学の問題 増補版 共立 1969 
2 代数幾何における位相的方法 吉岡書店 2002 
3 双有理幾何学 Kollar 岩波 2008 大学410.8I95.16
4 現代ベクトル解析 ベクトル解析から調和積分へ Nickerson 岩波 1965 
5 ガロアの理論 Postnikov 東京図書 1964 
6 初等代数幾何講義 Lead 岩波 1991
7 現代代数学 3巻 Waerden 東京図書 1959 
8 復刊 近代代数学 秋月康夫ほか 共立 2012 
9 特異点入門 石井志保子 シュプリンガー・ジャパン 1997
10 ルベーグ積分入門 伊藤清三 裳華房 1963 
11 代数函数論 増補版 岩澤健吉 岩波 1973 
12 凸体と代数幾何学 小田忠雄 紀伊國屋書店 2008 
13 代数多様体論 川又雄二郎 共立 1997 
14 理工科系 代数学と幾何学 小松醇郎 共立 1966
15 行列と行列式 佐武一郎 裳華房 1958 
16 方程式論 園正造 至文堂 1948 
17 定本 解析概論 高木貞治 岩波 2010 
18 初等整数論講義 第2版 高木貞治 共立 1971 
19 代数学講義 改訂新版 高木貞治 共立 1965 
20 代数的整数論 第2版 高木貞治 岩波 1971 
21 複素函数論 辻正次 槇書店 1968 
22 保型形式と整数論 土井公二/三宅敏恒 紀伊國屋書店 1976 
23 代数幾何学 中井喜和ほか 共立 1957 
24 復刊 位相幾何学 ホモロジー 中岡稔 共立 1999 
25 可換環論 永田雅宜 紀伊國屋書店 1974 
26 可換体論 永田雅宜 裳華房 1967 
27 理系のための線型代数の基礎 永田雅宜 紀伊國屋書店 1987
28 復刊 アーベル群・代数群 永田雅宜 共立 1999 
29 復刊 抽象代数幾何学 永田雅宜 共立 1999
30 大域変分法 長野正 共立 1971 
31 復刊 現代代数学 服部昭 朝倉書店 2004 
32 多変数解析函数論 一松信 培風館 1960
33 代数幾何学 広中平祐講義 京都大学 2004 
34 ゲージ理論とトポロジー 深谷賢治 丸善出版 2012 
35 数学原論 可換代数3 ブルバキ 東京図書 1986 
36 数学原論 代数3 ブルバキ 東京図書 1977 
37 数学原論 代数4 ブルバキ 東京図書 1969 
38 数学原論 代数5 ブルバキ 東京図書 1969 
39 集合・位相入門 松坂和夫 岩波 1968 
40 復刊 リー環論 松嶋与三 共立 2010 
41 多様体入門 松嶋与三 裳華房 1965 
42 代数幾何学 宮西正宜 裳華房 1990 
43 モース理論 Milor 吉岡書店 2004 
44 モジュライ理論Ⅰ、Ⅱ 向井茂 岩波 2008 
45 解析的整数論Ⅰ 素数分布論 本橋洋一 朝倉書店 2009 
46 不変式論 森川寿 紀伊國屋書店
47 群と位相 横田一郎 裳華房 1971 
48 谷山豊全集 増補版 日本評論社 1994 
49 不等式 大関信雄 槇書店 1967 
50 定木による作図、コンパスによる作図 スモゴルジェフスキー 東京図書 1964 
51 ガロアの夢 群論と微分方程式 久賀道郎 日本評論社 1968 
52 石とりゲームの数理 一松信 森北出版 1957
53 初等的に解いた高等数学の問題 1-4 Yalom 東京図書 1957 
54 復刻版 近世数学史談・数学雑談 共立 1996 
55 量子群とヤン・バクスター方程式 シュプリンガー・ジャパン 1990 
56 数学者ザリスキーの生涯 Prikh シュプリンガー・ジャパン 1996 
57 ガロアの時代 ガロアの数学 第Ⅰ部、Ⅱ部 彌永昌吉 丸善出版 1999
58 数学者の20世紀 彌永昌吉エッセイ集 岩波 2000 
59 アンドレ・ヴェイユ自伝 ある数学者の修行時代 丸善出版 2012 
60 若き日の思い出 彌永昌吉 岩波 2005 
61 目で見る美しい量子力学 外村彰 サイエンス社 2010 
62 確率論と私 伊藤清 岩波 2010 
63 志学数学 井原康隆 丸善出版 2012 
64 小数ができない大学生 国公立大学も学力崩壊 岡部恒治 東洋経済新報社 2000  
65 『博士の愛した数式』 小川洋子 新潮社 2003 
66 クロフツ短編集 Crofts 東京創元社 1965 
67 伝えたい大切なこと 産経 東洋経済新報社 2006 
68 記憶の切繪図 七十五年の回想 志村五郎 筑摩書房 2008
69 数学をいかに使うか 志村五郎 ちくま学芸文庫 2010
70 中国説話文学とその背景 志村五郎 ちくま学芸文庫 2006
71 無所属の時間で生きる 城山三郎 朝日新聞社 2002 
72 数学まなびはじめ 第1集、第2集 日本評論社 2006
73 算数軽視が学力を崩壊させる 西村和雄ほか 講談社 1999 
74 視覚の地平 勝井三雄 宣伝会議 2003

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参考
2013 1010頃
数学者が読んでいる本ってどんな本 小谷元子(編集) 東京書籍 森重文 (著), 上野健爾 (著), 足立恒雄 (著),砂田利一 (著), 黒川信重 (著),小谷元子 (著, 編集), 益川敏英 (著), 野崎昭弘 (著), & 5 その他 など
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参考 
【今日の数学者】2月23日はガウスの命日であり、志村-谷山予想の志村五郎先生のお誕生日であり、フィールズ・メダリストの森重文先生のお誕生日です。

「誕生日の素数」  知の``継承''が生む創造力 (志村 五郎 米プリンストン大学名誉教授) 2001年11月8日 / 志村五郎先生の「誕生日の素数」のダビンチコードは?「19300223、209563、 691、55787、313289、23333」

研究計画 あの頃考えていたこと(学問編) 数学 整数論(志村理論)を知る 「数を読む」
(   森重文先生の「誕生日の素数」のダビンチコードは? )

数学者(整数論) 志村五郎氏死去   (谷山志村予想とフェルマーの最終定理 300年来の超難問証明に貢献) 2019年 5月3日 

「すべての楕円曲線はモジュラーである」  ( 「谷山=志村予想」は、「志村予想」だった! 先生の「誠実さ、優しさ」)数学の統一理論にも貢献! 
志村五郎 スケッチ700ss




数学者の藤原正彦さんは、大学院時代の指導教官から厳命されたそうだ。「フェルマーだけはやるな。数学人生終わりだよ」(『世にも美しい数学入門』ちくまプリマー新書)。

 ▼「(Xのn乗)+(Yのn乗)=(Zのn乗)でnが2より大きい自然数の解はない」。17世紀のフランスの法律家フェルマーは、「証明法をみつけた」とだけ本に書き残していた。この「フェルマーの最終定理」にどれほど多くの数学者が挑み、敗れ去ってきたことか。

 ▼360年後の1994年、米プリンストン大のアンドリュー・ワイルズ教授がようやく証明に成功する。そのカギとなったのが、「谷山・志村予想」と呼ばれる楕円(だえん)曲線に関する理論である。

 ▼谷山豊さんと志村五郎さんは、東大数学科で学術雑誌の貸し借りをきっかけに知り合った。谷山さんは31歳で謎の自殺を遂げる。当時プリンストン大に移っていた志村さんが、谷山さんの研究を引き継いだ。

 ▼藤原さんによれば、奇妙奇天烈で豪快だった谷山さんの理論を、志村さんが10年くらいかけて美しい姿に仕上げた。「谷山は正しい方向に間違えるという、特別な才能に恵まれていた」。親友を評する言葉は、なんとも味わい深い。フェルマーの定理の証明より、志村さんたちの予想の方が、数学への貢献は大きい、との見方さえあるそうだ。

 ▼志村さんは、中国の古典文学に関する研究書など、数学とは関係のない原稿も数多く残している。その一つが「丸山真男という人」と題したエッセーである。戦後の論壇に大きな影響力を持っていた政治学者に対して、歴史認識の誤りや教養の欠如を批判していた。今月3日、89歳で世を去った天才数学者の頭の中はどうなっていたのだろう。
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数学者・志村五郎の死



5月3日、数学者の志村五郎プリンストン大学名誉教授が亡くなられたというニュースが流れた。志村五郎と言えば、フェルマーの大定理の証明においてもキーになった「谷山・志村予想」が有名であり、数学を学んだことのある学生ならその名を一度くらいは聞いたことがあるはずだ。

しかし、今回驚かされたことは、志村氏の死去のニュースがヤフーニュースで流れていたことだ。僕もヤフーニュースで志村氏の死を知った。いくら数学関係者の中で有名だったとは言え、ヤフーニュースで流れる程世間の注目を浴びているとは考えもしなかった。ヤフーニュースでこのニュースを見た人のうちどれくらいの人が興味を持ったのかはわからないが、数学研究というものが少しでも市民権を得られればと強く思う。ちなみに、谷山・志村予想のもう一人、谷山豊氏は、若くして自死をされている。

本屋の数学書コーナーに行くと、谷山豊全集というものが並んでいる。数学関係の全集とは一般の人にはなじみがないかもしれないが、全集が出されるほど谷山氏は偉大な数学者であった。そして志村氏も同様に偉大な数学者である。偉大な数学者や物理学者の研究に対しては、コレクテッドペーパーやコレクテッドワークスと言われる論文集が出されることがある。これらの論文集は偉大な学者の研究が一望できる非常に便利なものである。もしかしたら、これから志村氏の論文集も出るのかもしれない。と思ってAmazonで確認してみると、既に志村氏のcollected papersが出版されていた。やはり偉大だ。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/志村五郎

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『世にも美しい数学入門』ちくまプリマー新書

藤原/正彦
1943年旧満州新京生まれ。数学者、エッセイスト。お茶の水女子大学理学部教授。米英の大学で教鞭をとった経験を持つ。数学者の論理的視点と日本文化を深く愛する情緒的観点による、独自の発言や作品で知られる 

小川/洋子
1962年岡山市生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞。91年「妊娠カレンダー」で第104回芥川賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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神様が隠している美しい秩序 藤原正彦/小川洋子「世にも美しい数学入門」


映画が終わってトイレに行きたくて案内表示に従って歩いていく。
ここかと思ったら女性用で男性はもっと先だと矢印の表示がある。
すぐそこかと思って歩いて行くが曲がりくねった廊下が続いてなかなかトイレにつかない。
そうする内に建物の外に出てしまった。
矢印の表示はそこをまっすぐに進めとある。
外はちょっとした広場になっていて、どうやらトイレは向う側の街のなかにあるようだ。
おりあしく雨が降っていて躊躇しているとどんどん強くなる。
俺は映画館の係りの男に「案内が不適当だ」と文句を言う。
男は一向に気にしない様子で、へらへらと「こういう仕事をしたこともない人が勝手なことを言う」と嘯いた。
「莫迦にするな、俺だっていろんな仕事をしてるから案内表示の作り方くらい分かるぞ」と言ってるうちに場面が変わって俺は別の建物の前でうろうろしている。
そうです、夢です。
トイレに行きたかったんですね。
それと今読んでいるカズオ・イシグロの「充たされざる者」という940頁もある小説、読めども読めども悪夢のなかを歩いて行くような小説、それが夢のなかに投影されたに違いない。

悪夢のなかのとらえどころのない不条理な出来事の連続を追うのに疲れて、すっきりとした数学の世界のことでも読もうと積読本棚から取り出したのが本書だ。
小川洋子の「博士の愛した数式」は6年前に読んで感心した。
その紹介文を↓に添付しました。
毎週月曜日の朝、社員が出勤する前に前の週に読んだ本のことを書いて本は寄贈した。
短い時間に書き飛ばした紹介文を読むと、あの頃が懐かしくてたまらない。


その小川が数学者・藤原正彦と数学の面白さを語り合った本書、眠くなるまでのつもりが面白くてとうとう読んでしまった。
「三角形の内角の和が180度である」、、そうなんだ、これほど簡単だけど考えれば不思議な美しさに満たされたことはない、これを干からびた知識として暗記させられることなくこの世界に潜んでいる不思議な物語として教えられたら俺だってひとかどの数学マニアくらいにはなれたのだ、、から始まって、友愛数の話とか完全数、「オイラーの公式」については「博士の好きな、、」の重要なモチーフだったなあ。
江夏豊の背番号が28という完全数(自分の約数をすべて足すと自分になる数、1∔2∔4+7+14=28、しかも連続した自然数の和で表わせる、1+2+3+4+5+6∔7=28)ということを発見した作家の小川がこの小説を完成させた。
“数学は実用に役立たないから美しく素晴らしい”、という。
レンホウさんはなんというだろうか。


藤原は天才数学者の生まれる条件を三つあげる。
 
第一には神とか自然、伝統などにひざまずく心があること。
 
第二は美しいものを身近に観て育つこと。いくら知能指数が高くても美に敏感でないと数学者にはなれない。
 
第三は精神性を尊ぶ。

 
インドのラマヌジャンなどが代表例だが、日本人数学者も微積分の関孝和、弟子の建部賢弘、類体論の高木貞治、岡潔、岩澤健吉、「フェルマー予想」の証明に大きな役割を果たした「谷山=志村予想」の谷山豊、志村五郎、、などノーベル賞に数学部門があれば少なくとも20人は受賞していただろうという。
ヨーロッパ、ギリシャの人々にはゼロの発見や虚数の理解は難しいとも。
たしかにヨーロッパでは16世紀頃まで記数法が確立していなくて位取りも知らなかったと云うのは驚きだ。

「6以上の偶数はすべて二つの素数の和で表わせる」というゴールドバッハの問題など素数のこと、そして円周率!「ビュッフォンの針の問題」(ある一定の幅の平行線の間にその幅の半分の長さの針を投げた場合、その針が線に触れるか針の間に落ちるかのどちらかになるのだが、線に触れない確率はπ[パイ]分の1になる)、極めつけは上にもあげた「オイラーの公式」だ。
神の不可思議な手を感じる。

しかし、ゲーデルの「不完全性定理」のことなどを考えると、整然とした美しい数学の世界にもカズオ・イシグロが書こうとした不条理の混沌が横たわっているような気配でもある。

ちくまプリマー新書 



(1) 博士の愛した数式   小川 洋子   新潮社

 気になっていて、人からもすすめられていたホン。このところ読書欲すらなくなって這いずり回っていたが、ときどき書棚から「早く読んでよ」とウインクしていた。
3時間足らず一気読みでした。保阪さんに言わせると一気読みできるような小説はいい小説とはいえないそうだが大きなお世話だ。不覚にも何度か涙ぐみながら読み終わるのがもったいない気持ちになるほど博士とルート少年、それに主人公の世界に引き釣りこまれてしまった。
交通事故の後遺症で80分しか記憶が続かない(ほんとはちょっと分かりにくい設定だが、この際細かいこといわない)老数学者が家政婦として派遣された主人公とその息子のルートの前に繰り広げる数字の世界。数字は、人間が考え出したものではなく最初からあったもの、神の人間への贈り物、その世界が謎に満ちていることは悪魔の存在証明。
オイラーの公式なんてすっかり忘れていた。π(円周率)とi(マイナス1の平方根、すなわち虚数)を掛け合わせた数でe(自然対数の底)を累乗し、1を加えるとなんとゼロになる!これをこの小説では「果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋の i と握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。」と書く。
仏教・禅のホンで明かされる宇宙の秘密にも通じる数字の完璧な・摩訶不思議な世界。その前で交わされる3人の愛の物語。いいおとぎ話です。 

 
////// 親子孫で楽しむ算数・数学「数を読む」 志村五郎先生「誕生日」の「素数の世界」 //////





志村五郎 先生の 書籍 と 物語ss

<数学の女王 「整数論 」 >数学者・志村五郎はなぜ東大を去ったか? 丸山眞男~戦後進歩的知識人との決別の理由/志村理論の始まりは・・・「すべての楕円曲線はモジュラーである」
志村五郎 記憶の切繪図 鳥のように 700


谷山志村予想「フェルマーの最終定理」ss

300年来の超難問証明に貢献、志村五郎氏死去 (「整数論」の世界的権威)

モジュラーの世界のイメージss







https://www.youtube.com/watch?v=NvRAWCfRy-E志村五郎先生の書籍(1部)ss

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参考

http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/689.html

https://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~abenori/conf/20150817.html

http://www.sci.kumamoto-u.ac.jp/~narita/ss2011_proceedings.pdf

http://ntw.sci.u-toyama.ac.jp/ss2017/

http://www.ist.aichi-pu.ac.jp/~tasaka/ss2018/index.html

https://core.ac.uk/download/pdf/42026066.pdf

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ワイルズによるフェルマー予想の解決にも岩澤理論は大きな役割を果たした。 また、これ以外にも日本人数学者の結果が大きく寄与している。例えば、 肥田(晴三)の理論が有効に用いられたし、解決への道筋は谷山・志村予想を 経由するものであった。

https://www.math.kyoto-u.ac.jp/~tetsushi/nt_seminar.html
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<数学 「整数論」の世界的権威> 300年来の超難問証明(フェルマー最終定理)に貢献、志村五郎氏死去 (志村五郎先生のご冥福を、お祈りいたします。)

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志村五郎さん死去 フェルマーの最終定理の証明に貢献 2019年5月3日 (令和元年5月3日)


 数学の超難問「フェルマーの最終定理」の証明につながる予想を提唱した米プリンストン大名誉教授の志村五郎さんが3日、89歳で亡くなった。同大が発表した。

 志村さんは整数論が専門。1950年代~60年代に、故谷山豊・東京大助教授と共に楕円(だえん)曲線の性質に関する「谷山=志村予想」を提唱。この予想を手がかりに、提示から350年以上数学者を悩ませてきた整数論の難問、フェルマーの最終定理が、英国のアンドリュー・ワイルズさんによって95年に証明された。

 東大卒業後、同大助教授などを経て、64年から99年までプリンストン大教授を務めた。77年に米数学会「コール賞」、91年度に朝日賞を受賞した。

 
<数学の女王 「整数論 」 >数学者・志村五郎はなぜ東大を去ったか? 丸山眞男~戦後進歩的知識人との決別の理由/志村理論の始まりは・・・「すべての楕円曲線はモジュラーである」

東大受験必読、数学者・志村五郎の遺した言葉 (ちくま学芸文庫 「数学をいかに使うか」(2010)「数学の好きな人のために」(2012)「数学で何が重要か」(2013) そして「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊)



<数学 「整数論」の世界的権威> 300年来の超難問証明に貢献、志村五郎氏死去 (志村五郎先生のご冥福を、お祈りいたします。)



数学者(整数論) 志村五郎氏死去 (谷山志村予想とフェルマーの最終定理 300年来の超難問証明に貢献) 2019年 5月3日


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1958年 - 国際数学者会議招待講演(エジンバラ)
1966年 - 国際数学者会議招待講演(モスクワ)
1970年 - 国際数学者会議招待講演(ニース)
1977年 - アメリカ数学会コール賞数論部門:"Class fields over real quadratic fields and Heche operators", Annals of Mathematics, Ser. 2, Vol. 95, 1972; "On modular forms of half integral weight", Annals of Mathematics, Ser. 2, Vol. 97, 1973に対して
1978年 - 国際数学者会議招待講演(ヘルシンキ)
1991年 - 朝日新聞社朝日賞:整数論の研究
1995年 - 藤原科学財団藤原賞:アーベル多様体の虚数乗法論と志村多様体の構成
1996年 - アメリカ数学会スティール賞(生涯の業績部門):重要かつ広範な分野におよぶ数論幾何学と保型形式の業績に対して
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参考

感動!「350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論]) 

数学 「350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論]) 

京都 VSOPも感動! (谷山・志村予想 がカギ)350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論]) 

京都 VSOPも感動!「350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論]) 
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「数学者」としてのあの頃の感覚として読む(理系向き書籍)
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【書名】「解決!フェルマーの最終定理 現代数論の軌跡」加藤和也著、日本評論社
( フェルマーの大定理が解けた!―オイラーからワイルズの証明まで (ブルーバックス) 足立恒雄著 新書 )
( フェルマーの大定理―整数論の源流 (ちくま学芸文庫) 足立恒雄著 )
( フェルマーの最終定理 文庫 フェルマーの最終定理 (新潮文庫) サイモン シン(著), 青木 薫 (翻訳) )

 
1993年6月23日に、プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を宣言し、その後、証明の不備が見つかり、1年以上に苦考の末、1994年9月19日にその修正に成功したこの期間に、著者が証明の解説として数学セミナー読者向けに書いたものを集めたものである。厳密性はないが、極力丁寧に、正確に伝えようとする、著者の誠実さと、理解の深さが伝わってくる。原論文の 1. A. Wiles; Modular elliptic curves and Fermat's last theorem, 2. R. Taylor, A. Wiles; Ring theoretic properties of certain Heck algebras にも、整数論にも、非常に惹きつけられる内容だった。購入時にも読んだと思われるが、詳しく覚えていないところをみると、理解しようとはしていなかったのかもしれない。むろん、今回も十分な時間をかけて読んだとは言えないが。

以下は備忘録

「砂田利一『基本群とラプラシアン、幾何学における数論的方法』」(p.37)「ワイルス『ぼくは、フライとリベットの結果を知ったとき、風景が変化したことに気がついた。(中略)この時まで、フェルマの最終定理は、何千年間もそのまま決して解かれることがなく数学がほとんど注目することがない数論の他の[散発的かつ趣味的な]ある種の問題と同じようなものに見えていた。フライとリベットの結果によって、フェルマの最終定理は、数学が無視することのできない重要な問題の結果という形に変貌したのだ。(中略)ぼくにとって、そのことは、この問題がやがて解かれるであろうと言うことを意味していた』」(p.67)「清水英夫著『保型関数I, II, III』、志村五郎著『Introduction to the theory of automorophic functions』、Knapp『Elliptic curves』、河田敬義著『数論I, II, III』、藤崎源二郎・森田康夫・山本芳彦著『数論への出発』、上野健爾著『代数幾何学入門』、J.H.シルヴァーマン・J.テイト著(足立恒雄〔ほか〕訳)『楕円曲線論入門』、土井公二/三宅敏恒著『保型形式と整数論』、肥田晴三著『Elementary theory of L-functions and Eisenstein series』、吉田敬之著『保型形式論: ─現代整数論講義 ─』、N.コブリンツ著(上田勝〔ほか〕訳)『楕円曲線と保型形式』」(p.123,4)「田口雄一郎さんの手紙に『Deligne さんの家はこの道の始まりのところ、森の入り口にあります。Deligne さんといへども、森羅万象の真理の最奥に至る道のほんの入口のところにゐるに過ぎないといふ、これは自然による卓抜な比喩であると思われます。ところが、恐ろしいことに彼の子供たちは毎日この道を通って森のむかうの学校に通ってゐるらしいのです。』とありました。フェルマーからの350年は大進歩でしたが、人類が続いてゆけば、それは今後何千年の数学の序曲であり、何段も何段も自然の深奥への新しい段階があることでしょう。」(p.239)「ガウス『どのように美しい天文学上の発見も、高等整数論が与える喜びには及ばない』ヒルベルト『数論には古くからの問題でありながら、今日も未解決のものが少なくない。その意味で、多くの神秘を蔵する分野であるが、他方、そこで展開される類体論のような、世にも美しい理論がある』」(p.245)「岩澤健吉『代数体と、有限体上の一変数関数体は、どこまでも似ていると信じてよい』」(p.246)「志村五郎は『整数論いたる所ゼータ関数あり』と述べたが今その言葉に『ゼータ関数のある所 岩澤理論あり』と続けて考えたい」(p.261)『ゼータ関数のある所 肥田理論あり』ともいえる。
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 「フェルマーの最終定理」を理解したい人(参考 書籍紹介)

N.コブリンツ著(上田勝〔ほか〕訳)『楕円曲線と保型形式』
土井公二/三宅敏恒著『保型形式と整数論』
志村五郎著『Introduction to the theory of automorophic functions』
J.H.シルヴァーマン・J.テイト著(足立恒雄〔ほか〕訳)『楕円曲線論入門』
Knapp『Elliptic curves』
河田敬義著『数論I, II, III』
藤崎源二郎・森田康夫・山本芳彦著『数論への出発』
上野健爾著『代数幾何学入門』
肥田晴三著『Elementary theory of L-functions and Eisenstein series』
清水英夫著『保型関数I, II, III』
吉田敬之著『保型形式論: ─現代整数論講義─』
砂田利一著『基本群とラプラシアン、幾何学における数論的方法』

原論文の
 1. A. Wiles; Modular elliptic curves and Fermat's last theorem, 
 2. R. Taylor, A. Wiles; Ring theoretic properties of certain Heck algebras
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論文集 (志村五郎)
Collected Papers. I: 1954-1965 (Hardcover ed.). Springer. (2002). ISBN 978-0-387-95406-6.
Collected Papers. II: 1967-1977 (Hardcover ed.). Springer. (2002). ISBN 978-0-387-95416-5.
Collected Papers. III: 1978-1988 (Hardcover ed.). Springer. (2003). ISBN 978-0-387-95417-2.
Collected Papers. IV: 1989-2001 (Hardcover ed.). Springer. (2003). ISBN 978-0-387-95418-9.
など

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「教育者」としてのあの頃の感覚として読む(文系向き書籍)
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フェルマーの最終定理 【著者】サイモン•シン(青木薫 訳) 【発行】新潮社(新潮文庫)

整数に関する問題は、問題を理解するのはやさしいが解くのはとてつもな く難しいことが多い。この本の表題ともなっている「フェルマーの最終定理」 の証明もそのような整数問題の1つであり、アマチュア・プロを問わず 300 年もの間、多くの数学者の挑戦を退けてきた問題である。1995 年最終的に 証明を成し遂げた勝者はアンドリュー・ワイルズという数学者であった。し かし、その証明への取り組みは試練に満ちており、7年間の隠密行動、そし て1度は証明できたと発表して、その後証明に穴があることがわかり1年余 りの間、公にさられた状態での穴埋め作業の末ようやく証明完了というドラ マが書かれています。谷山、志村、岩澤、肥田といった日本人数学者もからみ、困難な問題にチャレンジする人間模様を描いた物語として、一読を。


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参考
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(個人的に、「平成30年間」に影響を受けた書籍(一部分))

平成30年の「120冊」  個人的セレクト 数学書(数理科学関係 編)

平成30年間の31冊  個人的セレクト 数学書(数理科学関係 編) 洋書(英語版)

「令和」に伝えたい数学書籍  選  平成30年間の和書・書籍「120冊」(日本語)と洋書・書籍「31冊」(英語版)

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自主ゼミ用推薦図書は 「教科の手引き」


http://www2.sci.kyoto-u.ac.jp/lib/syllabus/syllabus02.htm 

数理科学系

書名/著者名
◇教員による(?)コメント 出版社,出版年 備考
数論入門 (現代数学への入門) / 山本芳彦著 岩波書店 , 2003.11 現代数学への入門, 2003-2004
電子ブック
◇整数や素数の基本的な性質からはじめて,合同式,平方剰余の相互法則,2次体の整数論が解説されている。また後半では高度な話題も扱われている。具体例が豊富に載っているので,抽象的な議論に慣れていなくても,手を動かして読み進めることができる。代数学の入門書としても適している。
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体とガロア理論(大学数学の入門;3 代数学 ; 3) / 桂利行著 東京大学出版会 , 2005.9
◇ガロア理論の手軽な入門書。体の理論,拡大体の理論,ガロアの基本定理が扱われた後,応用として代数方程式の可解性や定規とコンパスによる作図可能性が解説されている。大部ではないので,気楽に読み通すことができる。
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Fermatの夢と類体論 (数論 ; 1) / 加藤和也,齋藤毅,黒川信重著 岩波書店 , 2005.1
◇類体論の教科書。『どのような素数が二つの平方数の和で表されるか』といった素朴な問題からはじめて,楕円曲線,p進数,ゼータ関数,アデール・イデールといった概念が導入され,類体論が解説される。続編として,岩澤理論や保型形式論などの高度な話題を扱った「数論Ⅱ」もある。

岩澤理論や保型形式論 (数論 ; 2) / 加藤和也,齋藤毅,黒川信重著 岩波書店
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代数曲線論(講座数学の考え方;18) / 小木曽啓示著 朝倉書店
◇複素数体上の代数曲線(コンパクトリーマン面)の教科書。リーマン球面の定義から始めて,層や層係数コホモロジーの理論が展開され,セールの双対定理やリーマン-ロッホの定理とその応用が扱われる。代数曲線論をきちんと学んでおくと,より高度な代数幾何学を勉強するための足がかりにもなる。
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楕円曲線論入門 / J.Hシルヴァーマン,J.テイト著 ;足立恒雄 [ほか] 訳 シュプリンガー・フェアラーク東京
◇整数論的な楕円曲線論の教科書。有理数体上の楕円曲線の有理点が有限生成アーベル群をなすというモーデルの定理をはじめとした様々な定理が紹介・証明されている。また最後の章では虚数乗法論が解説されている。
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曲線と曲面の微分幾何 (改訂版) / 小林昭七著 裳華房 , 1995.9
◇曲面上の微分幾何学について,ガウスボンネの定理までを丁寧に解説してあり,具体例の計算も豊富に載っている。
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Using the Borsuk-Ulam theorem : lectures on topological methods in combinatorics and geometry (Universitext). / Jiří Matoušek ; written in cooperation with Anders Björner and Günter M. Ziegler  - 2nd, corr. printing Springer, 2008 電子ブック
◇Borsuk-Ulam の定理というトポロジーにおける初等的な定理の様々な変種や、グラフの彩色数などを含む組み合わせ論の問題への応用を解説する。英語は平易で、直感的にわかりやすい。予備知識は線形代数の初歩だけで、位相空間の知識は必要ない。トポロジーの入門書でもあり、組み合わせ論の解説書でもある。
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双曲幾何 (現代数学への入門). / 深谷賢治  岩波書店 , 2004.9  電子ブック 
◇線形代数と微積分だけで読める双曲幾何の入門書。双曲幾何とは非ユークリッド幾何の一つで、現代数学で重要な役割を演じている。 
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トポロジー入門 (共立講座21世紀の数学 ; 7)/ 小島定吉  共立出版 , 1998.7    
◇曲面を中心にして大学で習うトポロジーについて説明した本。基本群、被覆空間、複体のホモロジーを含む。初歩の群論を使うが、読みながら勉強してもよい。 
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トポロジー (岩波全書 ; 276)./ 田村一郎  岩波書店 , 1972.4    
◇単体複体のホモロジーが非常に丁寧に解説されており、ホモロジーのアイディアや初歩的な扱いを学ぶにはうってつけの本。予備知識は線形代数の初歩だけで、位相空間の知識は必要ない。
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複素解析 / L.V. アールフォルス著 ; 笠原乾吉訳 現代数学社 , 1982.3
◇複素函数論の定評ある入門書。複素数や複素関数から始めて、複素積分、級数展開、等角写像、楕円関数、などの内容が扱われる。複素函関数論には幾何学的な側面と解析的な側面とがあり、両者が良く解説されている。
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フーリエ解析大全 / T.W. ケルナー著 ; 高橋陽一郎訳 朝倉書店 , 1996.8-2003.3
◇解析学の基礎であるフーリエ解析の理論とその精神を、具体的な応用例を通して解説した本。必要な知識としては、1回生で学習する程度の微分積分学だけでよい。
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シナイ確率論入門コース / Ya.G. シナイ著 ; 森真訳 丸善出版 , 2012.6
◇確率論の基礎概念や重要な話題について一通り概観することができる良書。つまづきやすい確率論独自の用語や測度論の基礎事項についても、直観的な理解が得られるよう気を配りながら書かれている。本書を通読すれば、測度論や確率論を本格的に学ぶ際に役立つであろう。
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ルベーグ積分から確率論  (共立講座21世紀の数学 ; 10) / 志賀徳造著 共立出版 , 2000.4
◇確率論に必須のルベーグ積分を解説した後,確率論の基礎から,応用としてランダムウォークを中心とした確率過程を論じている。確率論がコンパクトに概観できる。
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コンピュータの数学 / ロナルド L. グレアム, ドナルド E. クヌース, オーレン パタシュニク [著] ; 有澤誠 [ほか] 訳 共立出版 , 1993.9 原著1st ed. 2nd ed.
◇原題は Concrete Mathematics.いろいろな分野からの楽しく具体的な計算が沢山盛られている。経験豊富な著者たちによって面白く学べる。大学の抽象的数学にショックを受けた人にも数学がそれだけでないという例があることがわかるだろう。コンピュータとは直接関係ないともいえるので,邦訳の題名にとらわれずに見てみるとよい。オイラーの計算に近づけるかもしれない。
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オートマトン言語理論計算論 ; 1 (Information & computing ; 3-4)  / J. ホップクロフト, J. ウルマン共著 ; 野崎昭弘 [ほか] 共訳  第2版

サイエンス社 , 1984.8-1986.3 原著1st ed. 2nd ed.
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◇オートマンと言語理論の解説書として最も有名な1冊。オートマンと正規表現および文脈自由言語の理論について一通りのことを学ぶことができる。例や練習問題もあり、これらを解き進めていくと理解が深まるだろう。
計算論 : 計算可能性とラムダ計算 (コンピュータサイエンス大学講座 ; 24) / 高橋正子著 近代科学社 , 1991.8
◇ラムダ計算について,構文論と意味論の両面から丁寧に解説されている。ラムダ計算に関してある程度専門的な内容まで学ぶことができる。証明等に関しても省略をすること無くきちんと書かれているので,内容を良く吟味しながら読み進めていくのがよいだろう。
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計算論 : 計算可能性とラムダ計算 (コンピュータサイエンス大学講座 ; 24) / 高橋正子著 近代科学社 , 1991.8
◇ラムダ計算について,構文論と意味論の両面から丁寧に解説されている。ラムダ計算に関してある程度専門的な内容まで学ぶことができる。証明等に関しても省略をすること無くきちんと書かれているので,内容を良く吟味しながら読み進めていくのがよいだろう。
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参考

http://www.sci.kyoto-u.ac.jp/ja/_upimg/files/curriculum-guide/2019curriculum-guide.pdf 

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参考 

「令和」に伝えたい数学書籍 選  平成30年間の和書・書籍「120冊」(日本語)と洋書・書籍「31冊」(英語版)
 

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参考
 

数学者が読んでいる本ってどんな本 東京書籍 森重文 (著), 上野健爾 (著), 足立恒雄 (著),砂田利一 (著), 黒川信重 (著),小谷元子 (著, 編集), 益川敏英 (著), 野崎昭弘 (著), & 5 その他 など (2013 10 10)
 

1990年8月21日 「3次元の代数多様体の極小モデル証明」 フィールズ賞を受賞 森重文 教授
 

参考
 

京都 VSOP も祝! 1990年8月21日 「3次元の代数多様体の極小モデル証明」 フィールズ賞を受賞 森重文 教授
 

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参考
 

<論文のマップあれば・・・>「3次元の代数多様体の極小モデル証明」 フィールズ賞を受賞 森重文 教授
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完全理解 「フェルマーの最終定理」の研究  (数学・数理科学分野) (「フェルマーの最終定理の証明」の理解へ)
 

完全理解 「ポアンカレ予想」の研究  (数学・数理科学分野) (「ポアンカレ予想の証明」の理解へ)
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京都賞 受賞記念講演 黒澤 明(思想・芸術部門映画・演劇)、アンドレ・ヴェイユ(基礎科学部門 受賞(数学 整数論・代数幾何学など))国立京都国際会館へ (大学の研究室 教授らとも、京大の友人とも)ame
 

あの頃考えていたこと(学問編)メモvol.2  数学 整数論(志村理論)を知る 「数を読む」Jugem
 あの頃考えていたこと(学問編)メモvol.1  数学 整数論(志村理論)を知る 「数を読む」 se 

数学 整数論「素数の宇宙の世界」 Dream of G. Shimura? (志村理論:志村多様体・志村ゼータ関数・志村曲線・志村モデル・志村系リフト・・) 【今日の数学者】2月23日生 志村五郎 li
 

1993年6月23日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を宣言 fc2
 1994年9月19日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を修正 li 

1995年2月13日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明(完成)se
 

感動!数学の歴史 「350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論]) ame
 

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参考
 

(個人的に、「平成30年間」に影響を受けた書籍(一部分))

<平成30年の読むべき30冊?「書籍・思索の旅(好書好日)」>平成の30冊、1位に1Q84「平成は村上春樹の時代」
 

平成30年の「120冊」  個人的セレクト 数学書(数理科学関係 編)
 

平成30年間の31冊  個人的セレクト 数学書(数理科学関係 編) 洋書(英語版)
 


平成はどんな時代だったか?「誰もが迷った30年」 確かに、戦争はなかった? しかし、経済戦争には、負けた!(世界企業ランキング: 平成元年 (日本企業は32社) と平成30年 (日本企業は1社))
 

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http://www2.sci.kyoto-u.ac.jp/lib/syllabus/syllabus02.htm
 

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物理科学系

書名/著者名
◇教員によるコメント 出版社,出版年 備考

〔解析力学〕
古典力学 上・下 (新版; 物理学叢書 ; 11a,11b) / ゴールドスタイン著 ; 瀬川富士, 矢野忠, 江沢康生訳 吉岡書店, 1983-1984 初版1959 訂正版1960 改訂版1968
量子力学を学ぶための解析力学入門 / 高橋康著 (増補第2版) 講談社, 2000 初版1978
力学 (ランダウ=リフシッツ理論物理学教程) / ランダウ・リフシッツ 東京図書, 1974
解析力学 1 (朝倉物理学大系 / 荒船次郎 [ほか] 編集 ,1-2) / 山本義隆, 中村孔一  朝倉書店, 1998  電子ブック 
〔量子力学〕
量子論の基礎 : その本質のやさしい理解のために / 清水明著(新版) サイエンス社 , 2004.4 初版2003
量子力学1・2 / 猪木慶治・川合光 講談社, 1994
現代の量子力学 上・下 / J.J. Sakurai著 ; San Fu Tuan編 ; 桜井明夫訳 (第2版) 吉岡書店, 2014-2015 初版1989
〔電磁気学〕
理論電磁気学 / 砂川重信 [著] (第3版) 紀伊國屋書店, 1999 初版 1965 
第2版 1973
電子ブック
〔統計熱力学〕
統計物理学 上、下 / ランダウ, リフシッツ [著] ; 小林秋男 [ほか] 訳 (第3版)

◇学部やや上級向き。 岩波書店, 1980-1980 第2版1966-1967
初版1957-1958
大学演習熱学・統計力学 / 久保亮五編 (修訂版)

◇豊富な問題を解きながら議論するゼミに向いている。ゼミとして解答集を新たに作成する意気込みで臨むと有意義になるだろう。  裳華房, 1998.9 初版1961
統計力学 1,2 / 田崎晴明著

◇全体の構成からとりあげる題材まで丁寧に検討されている素晴らしい本。細部までしっかりと熟読することを薦めたい。
この本だけでほぼ閉じているので標準的なスタイルのゼミに向いている。  培風館 , 2008.12

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場の古典論 : 電気力学,特殊および一般相対性理論 (ランダウ=リフシッツ理論物理学教程) / エリ・デ・ランダウ, イェ・エム・リフシッツ著 ; 恒藤敏彦, 広重徹訳 東京図書, 1978.10 増訂新版1964
第7刷1984  1959(商工出版社) 初版1959

アインシュタイン選集 / アインシュタイン [著]
 1. 特殊相対性理論・量子論・ブラウン運動  (アインシュタイン選集 ; 1)  [アインシュタイン著] ; 中村誠太郎, 谷川安孝, 
   井上健訳編 
 2. 一般相対性理論および統一場理論 (アインシュタイン選集 ; 2)  [アインシュタイン著] ; 内山龍雄訳編 共立出版, 1970
量子力学の数学的基礎 / J.V.ノイマン [著] ; 井上健 [ほか] 共訳 みすず書房, 1957.11
スピンはめぐる : 成熟期の量子力学 / 朝永振一郎 [著] ; 江沢洋注 -- 新版 みすず書房 , 2008

活動する宇宙 : 天体活動現象の物理 / 柴田一成[ほか]共編  (第2版)

◇ダイナミックに活動する天体の姿を、観測・理論・シュミレーションの手法から、わかりやすく解説。 裳華房 , 2006 初版 1999

◇学部初級向け
The physical universe : an introduction to astronomy  (A Series of books in astronomy) / Frank H. Shu University Science Books, c1982 *教科の手引きには
1988とあり。
宇宙科学入門 / 尾崎洋二著 (第2版) 東京大学出版会 , 2010.3 初版1996

◇学部上級向け
 宇宙物理学 : 星銀河宇宙論 / 高原文郎著 (新版) 朝倉書店 ,2015.5 初版 1999
シリーズ現代の天文学   全17巻 -第1版-、-第2版- 日本評論社 , 2007-2018
宇宙物理学(朝倉現代物理学講座 13) / 佐藤文隆, 原哲也著 朝倉書店 , 1983.4  
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目標
(1)「整数論と数論幾何と表現論」と「微分幾何とトポロジーと代数幾何」 
純粋数学系としての「フェルマー の最終定理」と「ポアンカレ予想」等証明の完全理解とその発展
 
保型形式と保形表現の整数論
楕円曲線と暗号理論
代数幾何と情報理論
リーマン幾何学と相対性理論
ゼータ関数の統一理論
など

(2)「量子情報」と「金融工学」と「宇宙統一理論」と「科学史と社会学」
社会と数学の関わり系としての「量子コンピュータと暗号理論」と「株・金融市場(伊藤公式)とBSモデル」等の理論とその発展

量子力学と情報理論
確率解析とブラックショールズ公式
超ひも理論と統一理論
量子情報理論
など

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<数学の女王 「整数論 」 >数学者・志村五郎はなぜ東大を去ったか? 丸山眞男~戦後進歩的知識人との決別の理由/志村理論の始まりは・・・「すべての楕円曲線はモジュラーである」

<数学の女王 「整数論 」 >数学者・志村五郎はなぜ東大を去ったか? 丸山眞男~戦後進歩的知識人との決別の理由/志村理論の始まりは・・・「すべての楕円曲線はモジュラーである」


////// 親子孫で楽しむ算数・数学「数を読む」 志村五郎先生「誕生日」の「素数の世界」 //////

知の``継承''が生む創造力 (志村 五郎 米プリンストン大学名誉教授) 2001年11月8日 / 志村五郎先生の「誕生日の素数」のダビンチコードは?「19300223、209563、 691、55787、313289、23333」


( 日本にも「ガウス」はいた! ガウスは、数学の女王は、「整数論」といった!   谷山・志村は「すべての楕円曲線はモジュラーである」といった。)

「日本の「ガウス」である1つの理由
【今日の数学者】2月23日はガウスの命日であり、志村-谷山予想の志村五郎先生のお誕生日であり、フィールズ・メダリストの森重文先生のお誕生日です。」

「すべての楕円曲線はモジュラーである」  ( 「谷山=志村予想」は、「志村予想」だった! 先生の「誠実さ、優しさ」)数学の統一理論にも貢献!
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(個人的に、「平成30年間」に影響を受けた書籍(一部分))

平成30年の「120冊」  個人的セレクト 数学書(数理科学関係 編)

平成30年間の31冊  個人的セレクト 数学書(数理科学関係 編) 洋書(英語版)
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参考(やや専門的内容)

http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/689.html

https://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~abenori/conf/20150817.html

http://www.sci.kumamoto-u.ac.jp/~narita/ss2011_proceedings.pdf

http://ntw.sci.u-toyama.ac.jp/ss2017/

http://www.ist.aichi-pu.ac.jp/~tasaka/ss2018/index.html

https://core.ac.uk/download/pdf/42026066.pdf

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ワイルズによるフェルマー予想の解決にも岩澤理論は大きな役割を果たした。 また、これ以外にも日本人数学者の結果が大きく寄与している。例えば、 肥田(晴三)の理論が有効に用いられたし、解決への道筋は谷山・志村予想を 経由するものであった。

https://www.math.kyoto-u.ac.jp/~tetsushi/nt_seminar.html
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 今回は最初に、読書案内から始めよう。志村さんの自伝的なエッセー集「記憶の切絵図」(筑摩書房)と、その続編「鳥のように」(筑摩書房)の2冊である。
志村五郎 記憶の切繪図 鳥のように 700


 読む人によって、この2冊から受ける印象は様々であろう。

 私にはこの2冊から、志村さんがどうしても伝えたいと思った第2次世界大戦後の「進歩的知識人」の嘘や、彼らが持っていたソビエト連邦や北朝鮮などへの「無謬神話」の愚かしさ、また60年安保を契機として、志村さんが東京大学に見切りをつけて職を辞し、1年だけ大阪大学に勤務したのち米国に去ってしまった理由が、手に取る様に解るように思われた。

 もちろんそれは、私自身の偏見による読後感に過ぎないだろう。

 ただ、かつて同じ大学に学生として学んだ後、教官として20年以上、大学を中から見て来た一個人として、志村さんの批判は、襟を正して聞くべき本質を数多く含んでいると正味で思っている。そうした点について記してみたい、

21世紀の「坊っちゃん」志村五郎

 志村五郎氏は1930年2月に静岡県浜松市で生を受けたが、そこでの記憶は彼になく、実際に育ったのは現在の東京都新宿区、昭和初期は東京市淀川区の角筈、大久保界隈である。

 角筈と書いて「つのはず」と読む。現在では地名としては残っておらず「西新宿4丁目」などと味気ない行政区画になっている。この界隈はいわゆる「山の手」で、漱石こと夏目金之助(1867-1916)の生まれ育った土地でもある。

 「記憶の切絵図」を手にした人は、この地で育った志村さんの文体から、もし漱石が生きていたなら、こんなスタイルで書いたかもしれないと思うのではないだろうか。

 実際、志村さんの文は目立たぬ随所に彫琢が施されている。例えば・・・

 「切絵図」というのは江戸末期に出された、「江戸市中を三十ばかりの地域にわけて、一地域の案内図を四十五センチ四方くらいの紙に木版で刷ったもの」(同書p.9-10)で、「近吾堂大久保戸山高田辺之図」(1851)と金鱗同尾張屋版牛込市ヶ谷大久保絵図(1854)の中に「志村小三次」として彼の5世の祖の名が記されている・・・といった話から書き出されている。

 だが、読み進めるうちに「記憶の中にある切絵図」と「記憶」を「切絵図」状に読み継いでいくという、2つの含意の中を揺れる志村さんの心憎いレトリックに気がつくだろう。万事そんな具合で、一文一文ウイットに富んで読者を飽きさせない。


例えば、3才に満たない幼児の浜松時代、志村家は引っ越しをし、幼い彼が独りで

 「もとの家に行ったら誰もいず、『猫がいたあ』と泣いて帰ってきたと親たちは面白そうに何度も私に話した。ずっとあとで家内にも話していた」

 「つまり『この人は今はあんなもっともらしい顔をしているが、そうだったんですよ』ということらしい。私は覚えていないから何がおもしろいのかさっぱりわからない。『猫がわらっていたあ』なら多少面白くなるが」(「記憶の切絵図」p.16)


 末尾は言うまでもなく、数学者チャールズ・ドジスンがペンネーム「ルイス・キャロル」で記した「不思議の国のアリス」に登場する、にやにや笑いするチェシャ猫を言っている。

 万事こんな具合で、様々な創意が文体の随所に散りばめられている、彫琢に富みながら、それと嫌味に知らせない、深い教養をさり気なく散りばめた名文と思う。

 素読で漢籍に通じ、少年時代の娯楽読み物が落窪物語であったという志村さんの原点は伊達ではない。が21世紀のティーンにはこういう万華鏡のような文体を楽しむことは難しいのかもしれない。

 上の逸話のように、志村さんはよく「泣く」人だったらしい。

 中国古典文学のさり気ない一節の背景を察して涙ぐんでしまうといった経緯を知り、可愛いところがあるなぁ、憎めないなぁと思ってしまったのが、私が志村さんのファンになった一因である。

 だがもう一点、志村さんは極めて「血の気の多い」人でもあったようで、生前に行き来のあった人には様々な記憶があるようだ。

志村五郎の「丸山眞男」批判

 とりわけ、一時はそれなりに親密にもなりながら縁が途切れた「丸山眞男(1914-96)」氏や、「進歩的知識人」に対する舌鋒は極めて鋭く、それは丸山氏の死後になっても一向に収まらず、むしろ徹底の度合いを深めている。

 これに対する志村さんへの批判があるようだ。そうした中には、しかし志村さんが並行してお書きになっている「竹山道雄(1903-84)」評価などに言及しているものは少ないように思われる。

 竹山道雄は「ビルマの竪琴」で知られる小説家でもあるが、旧制第一高等学校、戦後の東京大学教養学部でドイツ語を教えた文学者であり、また原理から自由を問う先鋭的な思想の紡ぎ手でもあった。

 竹山道雄について、志村さん自身の言葉を引こう。



「私は第一高等学校では理甲で英語のほかにドイツ語を習った。ドイツ語の先生は氷上さん、竹山さんでどちらもよい先生であった」

 このさり気ない一文を、文字の表層で読んではいけない。

 志村さんは東京大学理学部数学科で学生として受講した教授たちについて、極めて点が辛い。ほとんど「なでぎり」状態である。


 そして、竹山さんについては「よい先生」であったと明快に記す。大変な落差がある。

 しかしこれを、「ドイツ語教師として良い先生であった」と浅く誤解すべきではない。

 当時の旧制高校生は生意気が高下駄を穿いて歩いているようなもので、志村さんは人物を見ているのである。

 竹山さんは、明らかに生意気の権化のような志村君をもってしても、一目置かざるを得ない人間としての筋道がぴしっと通った人物であった。

 そして返す刃で、志村さんは戦後の「進歩的知識人」を徹頭徹尾、一刀両断で切り捨てる。

 「もうひとつ『ソ連信仰』があって、この方がより悪質かも知れない。『米国寄りにならずまたソ連にも近寄るのでなく、米国とソ連の間にうまくバランスをとってやるべきだ』といういかにももっともらしい議論をする政治学者や評論家が大勢いた」

 「いわゆる『進歩的知識人』である。それは実は反米をごまかして言っていて、彼らは反共よりは反米の方が受けがよいことをよく知っていたのである。だから彼等の世界の中での公理的保身術に基づいていたと言っても良い」(同書p.124)

 とりわけ、以下の記述に注目すべきだろう。

 「竹山道雄はそれとは違って共産主義国を一貫して批判し続けた。彼は共産主義国信仰の欺瞞を極めて論理的かつ実際的に指摘した」

 「それができてまたそうする勇気のある当時ほとんどただひとりの人であった。いつの世の中でも正しいことを言うよりは、世間の受けのよいレトリックを弄するほうが安全で、そんな連中がはばをきかせるものである」〈同書p.124 継続部分〉

 2019年の日本もまた、この例外であるとは全く思えない。


「彼はまた東京裁判の甚だしい不当性と非論理性を言った。今となっては彼がほとんど常に正しかった事は明らかである」

 「ベトナム戦争の時には論理や主義と行動の有効性を区別すればよかったと思うが、それは彼のなしとげた仕事の偉大さを減じるものではない」(同上)

 いったい、世の中に様々な「碩学」と言われる人がある中で、どれほどの割合が、自分の分野、例えば数学、から完全に外れた領域について、盲従的な個人崇拝などではなく、厳しい批判的な視線で多くの文献をチェックしながら、先人の業績の「偉大さ」をはっきり明言できるだろう?


 「それは専門外でして・・・」式の、その実、思考以前の敵前逃亡のような意見が大半ではなかろうか?

 志村五郎はそういう男ではない。

 疑問をもったことには、ある徹底したアプローチを取り、自分で納得した範囲で、是は是、非は非と言っている。

 旧制高校、現在なら大学の教養課程で語学を担当した教官を、時代の先端に孤帆を張り、風に逆らって進む知性として捉え、評価したり評価に値せずと考えたりするだろうか?

 私も同じ大学の同じ学部で、すでにこの両者よりもはるかに長い時間、学生たちを教えてきたが、そんな気概を見せる青年は0.5%以下と思う。22年間、5000人教えて思いつくのは20人内外と言う意味である。

 学生・志村はこのように続ける。

 「彼(竹山道雄)の著作のなかで、文学的でなく政治的な文章に不案内な読者には1951年に書かれた『門を入らない人々』をまず読む事をすすめる。それから『ベルリンにて』も。ともあれ竹山道雄を今日論ずるひとがないことを私は惜しむ」

 竹山「門を入らない人々」(1951)や「ベルリンにて」(1956-57)については、稿を改めて私自身、この連載で取り上げることにしたい。


「論ずるひとがないことを惜しむ」と記した志村さんが、すでに新稿を著せない今、生きている私たちが、その言葉を真摯に受け止めて行動することが、何よりも手向けになるように思う。

 上の2稿は志村さんが旧制東京帝国大学生として数学科に学んでいた時期、ならびにフランス、米国滞在を経て帰国し、29歳で東京大学教養学部助教授に就任した年に発表された、竹山さんの仕事である。

 「門を入らない人々」は、左派学生のバリケードで定期試験が妨害されたとき、警官隊の介入で通路が開かれたけれど、そこから学内に入ることを拒んだ在学生たちを示す。


 当時、旧制の東京大学で最高年次に在学していた志村さんは、一学生として竹山さんの論考に触れ、深く心を動かされた。

 また「ベルリンにて」は、いまだ「ベルリンの壁」が出来上がる以前の東ドイツ、東ベルリンの停滞から書き起こされた東側社会経済への疑問の稿である。

 親友・谷山豊の自殺後、それで空席になったポストに着任した可能性があるように思うけれど、東京大学教養学部数学教室に助教授として着任した志村さんが、かつてそのキャンパスで指導を受けた竹山さんの論考として手に取ったものであろう。

 竹山「門を入らない人々」の翌年、学部を卒業していきなり講師として教養学部に着任した志村さんは、フランスそして米国での在外研究生活を挟んで帰国、着任した東大で見たのは、60年安保闘争や「樺美智子さん」の死亡事件で揺れる、大学当局と学生たちの姿だった。

 志村さんが遺された書物には、東大は「レベルが低すぎ」たため、1960年一杯で職を辞したとある。

 しかし、エッセーの他の記載を見る限り、志村さんが60年安保の年に東大を見かぎり大阪に移動したこと、そして1年を経ずしてプリンストン大学に頭脳流出した事実は紛れもない。

 どうやらいろいろあった模様でもあり、日本に帰って来ない覚悟をもって、一家揃って渡米した経緯が察せられる。


なぜ志村さんは東大を去ったのか?
何のレベルが低いのか?

 それは、学生が数学ができるとかできないとか、計算が得手だとか不得手だとかいう以前に、もっと人間として本質的な部分、竹山道雄が批判するような意味での、軽佻浮薄な進歩的左翼への絶望があったのではなかろうか?

 志村さん自身の言葉を引いてみよう。

 「附記すると、進歩的知識人は不思議なことに、いかにソ連が数多くの悪事をしたかに目をつぶったのである」


 「戦争が終わった時、ソ連は日本軍兵士を多数シベリアに抑留して長い間働かせた。これは労働力を得る目的でかなり前から計画されていた」

 「多数の抑留日本兵士が厳寒の下、飢餓と戦いながら過酷な労働を強いられたのである。この事を我々は決して忘れてはならない。これが誰が何度言っても言い過ぎる事はないと思うのでここに書いた」(記憶の切絵図 p.125)

 これを見て、私は志村さんという人を全面的に信用し、また、好きにもなった。

 いささか私事にわたることをお許しいただきたい。 長年の読者はご存知の通り、私の父もまた「シベリアに抑留」され「長い間働かせ」られた兵士の一人であった。

 もっと言えば、クリスチャンであった父の教会の先輩に、志村さんや岩澤健吉さんの指導教官、彌永昌吉氏があった。

 私の父は数理経済に志しながらシベリア抑留と復員後10年近くの寝たきり闘病生活で、何一つ果たすことができず、結局46歳で早世した。

 復員後、従軍しなかった「年下の上級生」たちにどれだけ勉強しても追いつかないという焦燥と絶望を父から聞いている私は、ご存知の方はご存知のように昭和一桁の生半な「碩学」に極めて点が辛い。

 そんななか、志村さんのような人が、こういう思いを胸に長年業績を上げてきたと知って、救われる思いを持った。

 志村さんは続ける。

 「この種の怒りをぶちまけるためにこの書物を書き始めたわけではないが、書いているうちにこうなってしまった」

 「私の時代を生きてきた人々の多くが私に同感してくれるであろうし、また若い人々がその歴史的事実を新たに認識してくれることを願うのである」


志村さんは、明らかに「怒り」を胸に湛えて、これらのことを記している。もっと言うなら(私が見た限り彼の書籍では確認することがまだできていないが)、身近にソ連の参戦やシベリア抑留のために人生を台無しにされた人物がいるのではないかと思う。

 そこに、切れば血の出る怒りを覚える人には、以下のような「進歩的知識人」の発言は、許すことができないだろう。

 「あるとき私は丸山が『朝鮮戦争は南北どちらが先に手を出したなどと論ずるのは意味がない。どちらが手を出してもおかしくない状況があった』という意味の事をいい、また「不可知論」という言葉を使っているのを知った」(「鳥のように」p.105)


 志村さんは、丸山眞男の渡米とプリンストン滞在を機に、一時期は家族ぐるみで親しく交流した時期があった。それが、絶縁することになった。

 会っていても互いに楽しくないから、ということで、志村五郎と丸山眞男とは絶交関係になってしまう。その背景を確認してみよう。

 「さて(朝鮮戦争の)当時私は三年制大学の二年生であった(中略)どちらが先に手を出したかわかりにくい状況にあったかというとそうではない」

 「当時の新聞その他で戦局の推移を調べれば容易に解るように(中略)あっというまに南側、米軍は圧倒されてしまったのである。南側に何の用意もなかったのは明々白々であった」

 「にもかかわらず南が先に手をだしたとか挑発したことにしたい連中が大勢いたために論争が生じたが、それは無理に作られた論争であった」

 この丸山眞男に代表されるこのような欺瞞を、竹山道雄は徹底して憎み、ナチスドイツも、スターリニズムも、左右の別なく狂信的な言説を徹底して批判していた。

 しかし、60年安保に沸き立つ全学連の学生たちは、戦前のファシズムに沸騰したのと同じように、今度は戦後のイデオロギーに衣装を変えただけで、相も変わらず狂信的で思考の停止した、程度の低い行動に終始している。

 その「レベルの低さ」にほとほと呆れて、志村五郎は東大を、そして日本を去ったのではないか?

 竹山道雄は右翼でもサヨクでもない。ただ単に、まっとうな了見をもって、自分の欲得でモノを考えずに判断し行動していただけである。そんな「竹山さん」の姿勢に、志村青年は心動かされた。

 「この作られた論争の根底には『共産主義国の無謬性』に対する信仰がある。無謬とまでいかなくても、ソ連や中共などの行為は常に善であるか、善に向かって進んでいるという信仰である」

 「ソ連に関して否定的ないわゆる『負の情報』は伝えられている限りでもかなりあった。しかし信ずる者にはみえなくなってしまうのである」

 「というより、隠したくなると表現するのが正確であろう。現在、日本で北朝鮮が正義の国で王道楽土だと思っている人は、まずいないであろう」(「鳥のように」p.107)

 上の書物は2010年の奥付をもち、冷戦終了後から20年近くを経て書かれている。


専門で大きな仕事をした数学者が、実は決して浮世離れした自分の世界に閉じこもるのではなく、戦後65年を経ても、いまだ沸々と滾る思いをもって、シベリアの極寒に学成らなかった青年を思い、たぶん間違いなく、たくさん涙なども流したであろう。

 そして、孤独に健筆をふるった竹山道雄を惜しみ、「曲学阿世の徒」(これは吉田茂が南原繁東大総長を批判した言葉であるけれど、志村さんもまた正反対の観点から、1946年の2月に東大で「天長節」を挙行した南原をナマスに斬っている)を一切容赦せず、同じレベルで右往左往を繰り返したゲバ学生やヘルメットのレベルの低さから、ついに日本に見切りをつけてしまった。

 こういう一本気な、20世紀、21世紀の「坊っちゃん」が死んでしまった。私は率直に寂しく思う。


 誤解のないように、私は志村さんを盲目的に崇拝などしていない。実のところ、彼が趣味として愛好していた「音楽」に関する記載は、私がここで触れない方がよいものばかりであったし、追悼文でもあるので言及しない、ということで私の判断をお察しいただきたい。

 専門人の立場からは、率直に言って一番ご一緒したくないタイプの音楽ファンで、実際、生前の志村さんとは一面識もなく終わることになった。

 先に記したように、志村さん自身が「没後の神格化」を大変嫌った。人には、それぞれ適した距離というものがある。

 私にとって志村さんは、書籍や論文で遠くから心の交わりを持つのが適切であった。このような「淡交」があって、良いように思う。

自分もこんな新緑の頃・・・

 志村さんは「記憶の切絵図」に収められた「死について」というエッセーで、小学3年か4年生のとき扁桃腺で熱を出したときの思い出を記している。

 「自分が死ぬ時もこんな新緑の頃であろうかなどと感傷的なことを考えていた」(「記憶の切絵図」p.93)

 奇しくもその言葉通り、5月3日の新緑・・・ただし地球規模の気候変動で古典的な緑がまぶしい日本列島であったかは疑わしいが・・・で人生を閉じられた。

 漱石、夏目金之助を思われる、一本気で喧嘩ッ早く、しかし情にも篤く涙もろい、ある意味で絵に描いたような山の手の江戸っ子「坊っちゃん」そのものと見える志村さん。

 もちろん、多くの限界も短所もあったのだと思う。そんな短所も含め、愛すべきものをたくさん持ち、またご自身も多くのものを愛された。

 そんな人間らしい志村さんが、志村さんであることによって、70歳を超えても旺盛な論文刊行ペースを崩さず、生涯にわたって不朽の仕事を遺された。

 行間から、数学にも後輩にも、様々の事物にも溢れる愛情を注いだ、この数学者・・・いや、一人の傑出した人物の、息遣いも思いも伝わって来る彼の遺稿が、21世紀の「精神の数学少年たち」に幅広く読まれることを心から望む。

 志村五郎は言った。

 「数学は祖述の学ではなく、創造の学である」

 一人の「坊っちゃん」の、この志、この声が、長く未来に木魂することを願って本稿を準備した。

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参考

超難問「フェルマーの最終定理」証明の最重要人物である日本の数学者が死去
志村五郎 スケッチ700ss




Point
■360年間解かれなかった数学の難問「フェルマーの最終定理」は、まったく無関係に思われたある命題を証明することで解決されている
■その重要命題が日本人数学者の提唱した「谷山-志村予想」だ
■そんな世紀の難問の解決に寄与した偉大な日本人数学者、志村五郎氏が5月3日89歳で死去した



平成の終わりと共に、一つの時代を見届けるかのように偉大な日本人数学者がこの世を去った。

志村五郎氏の名を知らなくても、数学の難問「フェルマーの最終定理」を記憶している人は多いだろう。

「フェルマーの最終定理」は1995年にイギリス生まれの数学者アンドリュー・ワイルズによって証明されたが、実は「フェルマーの最終定理」は志村氏の提唱した「谷山-志村予想」を証明することで解決している。

志村五郎氏の死去に伴い、氏が解決に大きな貢献をした「フェルマーの最終定理」という難問について、できるだけ分かりやすく振り返ってみよう。

志村五郎氏の訃報については、5月3日にプリンストン大学より発表されている。


「フェルマーの最終定理」をめちゃくちゃ簡単に説明する
谷山志村予想「フェルマーの最終定理」ss
 



「私はこの命題について、真に驚くべき証明を見出したが、それを記すにはここはあまりに余白が足りない」

360年前、フランスの数学者ピエール・ド・フェルマーはたったこれだけのメモを問題の脇に書き残してこの世を去ってしまった。

このツイッターにも投稿されていそうなフェルマーのメモは大変話題になり、以後この命題は「フェルマーの最終定理」と呼ばれることになる。

「フェルマーの最終定理」は、一見すると義務教育で教わる「ピタゴラスの定理」の拡張版だ。なんだか簡単に解けそうな問題にも見える。

この命題の「n=2」の場合が、直角三角形の辺の長さを求めるいわゆる「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」である。



しかし「n」が2なら無限に解が存在するというのに、この「n」が3以上の数字になると「x,y,z」を満たす解は一切存在しなくなってしまう。これがいわゆる「フェルマーの最終定理」の命題だ。

この問題を最終的に解いたアンドリュー・ワイルズは10歳の頃、図書館でこの問題を見つけて「俺なら解けるんじゃね?」と思ったようだ。それはそれでとんでもないお子様だが、しかしこれが大きな罠だった。

「n」が3以上の場合というのは、つまり無限に存在する「n」について、それぞれ解が無いと証明しなければならないわけで、これは非常に困難な証明なのだ。

以後30年以上、ワイルズはこの問題の呪縛に捕らわれることになる。

世紀の難問に光を与えた日本人

「すべての楕円曲線はモジュラーである」

またまた一般人には意味不明なこの一文が、「谷山-志村予想」または「志村-谷山-ヴェイユ予想」の主張だ。

ちなみに数学における「予想」とは、真だと考えられるが、証明することはできていない命題のことだ。「予想」が証明されるとそれは「定理」になる。

だから「フェルマーの最終定理」も厳密には「予想」になるわけだが、そこは証明できたと断言したフェルマーに敬意を払っておこう。

楕円曲線とは数論(数の性質について論じる数学の分野)における理論の一つで、解くと解が数列のような形で複数得られる。

一方モジュラーというのは、簡単に言うと四次元空間の無限の対称性について論じたものだ。


そんな説明じゃさっぱり意味がわからないよ! という人は、下のエッシャーの絵画「サークルリミットⅣ」を見てほしい。
モジュラーの世界のイメージss



この絵はモジュラーの理論を使って二次平面上に複雑な対称性を持つ模様を描いているので、この絵を眺めて「なんかこういう不思議なパターンを定式化するお話なんだ」と思ってもらえればいいと思う。

この楕円曲線とモジュラーはそれぞれの解がよく似た数列のパターンで得られるのだが、「谷山-志村予想」はこのよく似た解が似ているのではなくて、同じなのだと主張したのだ。

数学のまったく異なる領域の問題が、実は同一の概念を論じているというこの主張は、とても大胆で驚くべきものだった。

最初にこのアイデアを閃いたのは、呼称の中に名を連ねる谷山豊だった。しかし谷山はこのアイデアを思いついた数年後に自殺してしまう。盟友の死を嘆きつつ、そのアイデアを定式化したのが志村五郎だった。

「谷山-志村予想」は一般的にはあまり知られる機会のない理論だが、その後の数々の数学者たちのよる研究で、「フェルマーの最終定理」と結び付けられることになる。

フェルマーの最終定理は楕円曲線に変換可能であり、その解に対応したモジュラーは存在しない事が示されたのだ。つまり「谷山-志村予想」が正しければ「フェルマーの最終定理」はその命題の通りに解を持たないことになる。

二人の日本の数学者によって生み出された数学理論は、このとき長年の数学の難問の解決と直接結びついたのだ。

異なる数学の世界をつなげ、360年来の難問を解き明かした数学者たち


アンドリュー・ワイルズ氏 
無責任なフェルマーの証明宣言から360年。この難問は大勢の数学者たちの努力と挫折の末、1995年にアンドリュー・ワイルズによって「谷山-志村予想」を証明するという形で最終的解決を迎えた。

そこには数学の歴史を彩る様々な深いドラマがあった。

今、そんな数学の偉大な歴史に名を刻んだ一人の日本の数学者の人生が幕を下ろした。

50年以上前、自殺してしまった同僚谷山豊氏の偉大な閃きを定式化し、「フェルマーの最終定理」という数学の難問解決に寄与した志村五郎。彼は天国で谷山氏に良い報告をすることができただろう。

「フェルマーの最終定理」を巡る数学者たちのドラマに興味を持った人は、ぜひこの機会に『サイモン・シン著 フェルマーの最終定理 (新潮文庫)』を読んでみてはいかがだろうか。

フェルマーの最終定理 (新潮文庫) - サイモン シン 文庫 ¥853

フェルマーの最終定理 【著者】サイモン•シン(青木薫 訳) 【発行】新潮社(新潮文庫) / 「解決!フェルマーの最終定理 現代数論の軌跡」加藤和也著、日本評論社

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文系用読者:「教育者」としてのあの頃の感覚として読む
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フェルマーの最終定理 【著者】サイモン•シン(青木薫 訳) 【発行】新潮社(新潮文庫)

整数に関する問題は、問題を理解するのはやさしいが解くのはとてつもな く難しいことが多い。この本の表題ともなっている「フェルマーの最終定理」 の証明もそのような整数問題の1つであり、アマチュア・プロを問わず 300 年もの間、多くの数学者の挑戦を退けてきた問題である。1995 年最終的に 証明を成し遂げた勝者はアンドリュー・ワイルズという数学者であった。し かし、その証明への取り組みは試練に満ちており、7年間の隠密行動、そし て1度は証明できたと発表して、その後証明に穴があることがわかり1年余 りの間、公にさられた状態での穴埋め作業の末ようやく証明完了というドラ マが書かれています。谷山、志村、岩澤、肥田といった日本人数学者もからみ、困難な問題にチャレンジする人間模様を描いた物語として、一読を。

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理系用読者:「数学者」としてのあの頃の感覚として読む
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【書名】「解決!フェルマーの最終定理 現代数論の軌跡」加藤和也著、日本評論社
( フェルマーの大定理が解けた!―オイラーからワイルズの証明まで (ブルーバックス) 足立恒雄著 新書 )
( フェルマーの大定理―整数論の源流 (ちくま学芸文庫) 足立恒雄著 )
( フェルマーの最終定理 文庫 フェルマーの最終定理 (新潮文庫) サイモン シン(著), 青木 薫 (翻訳) )

 
1993年6月23日に、プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を宣言し、その後、証明の不備が見つかり、1年以上に苦考の末、1994年9月19日にその修正に成功したこの期間に、著者が証明の解説として数学セミナー読者向けに書いたものを集めたものである。厳密性はないが、極力丁寧に、正確に伝えようとする、著者の誠実さと、理解の深さが伝わってくる。原論文の 1. A. Wiles; Modular elliptic curves and Fermat's last theorem, 2. R. Taylor, A. Wiles; Ring theoretic properties of certain Heck algebras にも、整数論にも、非常に惹きつけられる内容だった。購入時にも読んだと思われるが、詳しく覚えていないところをみると、理解しようとはしていなかったのかもしれない。むろん、今回も十分な時間をかけて読んだとは言えないが。

以下は備忘録

「砂田利一『基本群とラプラシアン、幾何学における数論的方法』」(p.37)「ワイルス『ぼくは、フライとリベットの結果を知ったとき、風景が変化したことに気がついた。(中略)この時まで、フェルマの最終定理は、何千年間もそのまま決して解かれることがなく数学がほとんど注目することがない数論の他の[散発的かつ趣味的な]ある種の問題と同じようなものに見えていた。フライとリベットの結果によって、フェルマの最終定理は、数学が無視することのできない重要な問題の結果という形に変貌したのだ。(中略)ぼくにとって、そのことは、この問題がやがて解かれるであろうと言うことを意味していた』」(p.67)「清水英夫著『保型関数I, II, III』、志村五郎著『Introduction to the theory of automorophic functions』、Knapp『Elliptic curves』、河田敬義著『数論I, II, III』、藤崎源二郎・森田康夫・山本芳彦著『数論への出発』、上野謙健爾著『代数幾何学入門』、J.H.シルヴァーマン・J.テイト著(足立恒雄〔ほか〕訳)『楕円曲線論入門』、土井公二/三宅敏恒著『保型形式と整数論』、肥田晴三著『Elementary theory of L-functions and Eisenstein series』、吉田敬之著『保型形式論: ─現代整数論講義ー』、N.コブリンツ著(上田勝〔ほか〕訳)『楕円曲線と保型形式』」(p.123,4)「田口雄一郎さんの手紙に『Deligne さんの家はこの道の始まりのところ、森の入り口にあります。Deligne さんといへども、森羅万象の真理の最奥に至る道のほんの入口のところにゐるに過ぎないといふ、これは自然による卓抜な比喩であると思われます。ところが、恐ろしいことに彼の子供たちは毎日この道を通って森のむかうの学校に通ってゐるらしいのです。』とありました。フェルマーからの350年は大進歩でしたが、人類が続いてゆけば、それは今後何千年の数学の序曲であり、何段も何段も自然の深奥への新しい段階があることでしょう。」(p.239)「ガウス『どのように美しい天文学上の発見も、高等整数論が与える喜びには及ばない』ヒルベルト『数論には古くからの問題でありながら、今日も未解決のものが少なくない。その意味で、多くの神秘を蔵する分野であるが、他方、そこで展開される類体論のような、世にも美しい理論がある』」(p.245)「岩澤健吉『代数体と、有限体上の一変数関数体は、どこまでも似ていると信じてよい』」(p.246)「志村五郎は『整数論いたる所ゼータ関数あり』と述べたが今その言葉に『ゼータ関数のある所 岩澤理論あり』と続けて考えたい」(p.261)『ゼータ関数のある所 肥田理論あり』ともいえる。

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参考
ラングランス・プログラム= 志村・プログラム
志村五郎先生の書籍(1部)ss

数学の大統一に挑む - エドワード・フレンケル 単行本 ¥2,376
 
数学ミステリー白熱教室 (第1回から第4回)動画(フェルマー予想 から ラグランズプログラム)
https://www.youtube.com/watch?v=octSjc1Sk2U&list=PL6iz98WS2YpRGR2egcplCqKnx6PBr3czn
内容紹介
xのn乗 + yのn乗 = zのn乗

上の方程式でnが3以上の自然数の場合、これを満たす解はない。
私はこれについての真に驚くべき証明を知っているが、ここには余白が少なすぎて記せない。

17世紀の学者フェルマーが書き残したこの一見簡単そうな「フェルマーの予想」を証明するために360年にわたって様々な数学者が苦悩した。

360年後にイギリスのワイルズがこれを証明するが、その証明の方法は、谷村・志村予想というまったく別の数学の予想を証明すれば、フェルマーの最終定理を証明することになるというものだった。

私たちのなじみの深いいわゆる方程式や幾何学とはまったく別の数学が数学の世界にはあり、それは、「ブレード群」「調和解析」「ガロア群」「リーマン面」「量子物理学」などそれぞれ別の体系を樹立している。しかし、「モジュラー」という奇妙な数学の一予想を証明することが、「フェルマーの予想」を証明することになるように、異なる数学の間の架け橋を見つけようとする一群の数学者がいた。

それがフランスの数学者によって始められたラングランス・プログラムである。

この本は、80年代から今日まで、このラングランス・プログラムをひっぱってきたロシア生まれの数学者が、その美しい数学の架け橋を、とびきり魅力的な語り口で自分の人生の物語と重ね合わせながら、書いたノンフィクションである。
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数学ミステリー白熱教室 (第1回から第4回)動画(フェルマー予想 から ラグランズプログラム)
https://www.youtube.com/watch?v=octSjc1Sk2U&list=PL6iz98WS2YpRGR2egcplCqKnx6PBr3czn

志村五郎先生の書籍(1部)ss




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2015年11月
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ラングランズ・プログラム(英: Langlands program)は、代数的整数論におけるガロア群の理論を、局所体およびそのアデール上で定義された代数群の表現論および保型形式論に結び付ける非常に広汎かつ有力な予想網である。同プログラムは Langlands (1967, 1970) により提唱された。

ラングランズ・プログラム(英: Langlands program)は、日本の「志村五郎氏」による進展が大きい。

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////// 親子孫で楽しむ算数・数学「数を読む」 志村五郎先生「誕生日」の「素数の世界」 //////志村五郎 先生の 書籍 と 物語ss

サイモン・シン著 青木薫訳 「フェルマーの最終定理」 
新潮文庫(2006年6月)  (新潮社単行本 2000年) 

17世紀フェルマーによって提示された数学界最大の難問を、20世紀末に天才数学者ワイルドが完全証明にいたるサイエンス・スト

アンドリュー・ワイルズ                        ピエール・ド・フェルマー
上のアンドリュー・ワイルズの写真の、黒板に書いてあるのがフェルマーの定理(予想)です。フェルマーの最終定理とは、3 以上の自然数 n について、x^n + y^n = z^n となる自然数の組 (x, y, z) は存在しないという定理のことである。フェルマーの大定理とも呼ばれる。フェルマーが驚くべき証明を得たと書き残したと伝えられ、長らく証明も反証もなされなかったことからフェルマー予想とも称されたが、360年後にアンドリュー・ワイルズによって完全に証明され、ワイルズの定理あるいはフェルマー・ワイルズの定理とも呼ばれるようになった。本書の入る前に、フェルマーとワイルズの紹介を行っておこう。ピエール・ド・フェルマー(1607年- 1665年1月12日)はフランスの数学者で「数論の父」とも呼ばれる。ただし、職業は弁護士であり、数学は余暇に行ったものである。1607南フランスのトゥールーズ近くのボーモン=ド=ロマーニュに生まれ、1631年 - トゥールーズの請願委員となり、母の従姉妹のルイズ・ド・ロンと結婚。1648年 - トゥールーズ議会の勅撰委員となる。数学においては、パスカルと共同で確率論の基礎を作り、デカルトと文通を交わしながらデカルトとは独立に解析幾何学を創案するなどの功績を残す。 解析幾何学については、デカルトが二次元での理論にとどまったのに対し、フェルマーは三次元空間でも考えていた。その他、幾何学、微分積分学といった諸分野においても先駆的な仕事を遺しており、特に数論における仕事は独創的で後世の数論家たちに大きな影響を与えた。数論への傾倒の直接的な契機は、古代ギリシャの数学者ディオファントスが著した『算術』 (Arithmetica) の注釈本を1630年ごろに手に入れて研究したことのようである。 『算術』を熟読していくうちに彼はその余白に有名な48の注釈を書き込んだ。 フェルマーの数論における仕事が世に知られるようになったのは、その死後に長男のサミュエルが『算術』を父の書込み付きで再出版してからであり、数論の研究においては事実的に孤立していた。48の書込みのうち47の命題は後世の数学者達によって証明または反証が与えられたが、最後の一つは長年にわたって解かれずにいた。最後に残された、という意味でフェルマーの最終定理とも呼ばれるようになった有名な命題であるが、誰一人として証明も否定も成功せず、360年にわたって数学の謎の一つであり続けた。この問題は最終的に1995年、アンドリュー・ワイルズが谷山・志村予想の一部を証明したことによってようやく解決され、20世紀数学の掉尾を飾る金字塔となった。フェルマーが「真に驚くべき証明を発見した」と記しているフェルマーの最終定理についても、フェルマーは本当に証明していたかどうかは不明である。
アンドリュー・ワイルズ(1953年4月11日 - )は、イギリスの数学者。オックスフォード大学教授(整数論)。10歳のときにフェルマーの最終定理に出会い数学の道を進む。ケンブリッジ大学卒業。大学院でジョン・コーツの指導のもと、岩澤理論と楕円曲線論の研究、博士号を取得した。1989年王立協会フェロー選出され、プリンストン大学教授を経て、2011年から現職。証明に挑んだきっかけは、ケン・リベットが「フライの楕円曲線(=フェルマーの最終定理の反例)」はモジュラーとはならないことを証明したと聞き、フェルマーの最終定理を証明するには谷山・志村予想(従ってフライの「楕円曲線」は存在しないことを意味する)を解けば良いことを知ったことだった。もともと自身が数学を志したきっかけが少年時代にフェルマーのこの定理と出会ったことであり、この定理に対しては強い憧れを持っていたが、大学院時代に数々の天才が挑んでは敗れ去ってきたこの超難問に挑戦することを指導教官のコーツから止められていた。それが、上述のような経緯で自ら専門分野の楕円曲線と思いがけずも繋がることとなり、谷山・志村予想の証明だけに没頭することになったという。やがて3年目に、楕円曲線をガロア曲線に変換して比べたり、岩澤理論を応用したりして類数公式を考えることを思いついたものの、証明には手が届かなかった。ある日、フラッハ(→コリヴァギン=フラッハ法)という学生の論文に出会い、今までの考えを捨ててその理論を拡張することに専念するようになる。やがて7年目に、バリー・メイザーの論文から、モジュラーでない楕円曲線をモジュラーである楕円曲線に変換することを考え、フェルマーの最終定理の証明を確信した。最初の発表の場であったケンブリッジ大学の講演(1993年6月21?23日)では、事前にフェルマーの定理を証明したと告知していたわけでないにもかかわらず、噂が噂を呼んで、ジョン・コーツ、バリー・メイザー、リチャード・テイラーなど、多くの数学関係者が押しかけてきた。教室は満席で、立ち見まで出るほど盛況だったという。講演を終えた後、証明を論文誌に投稿したが、レフリーからの指摘で1箇所、致命的なギャップが発見された。それまでの単独研究というスタイルを捨て、弟子であるリチャード・テイラーも加えて、このギャップを埋めようとしたが難航した。多くの注目を集める中での研究となり、一時期は敗北宣言を出すことまで考えた。1994年9月19日、自身で諦めをつけるために証明のうまくいかない部分を見直していたところ、突然インスピレーションが涌き、本人曰く「夢じゃないかと思うような素晴らしい証明」が頭に浮かんだ。それは、うまくいかなくしている、まさにその原因が、研究当初放棄した岩沢理論によるアプローチを可能にするという発見であった。翌日、もう一度冷静に見直した結果、誤りがないことを確認し、証明を完成させた。新たな論文は1995年のAnnals of Mathematicsに掲載された。再度の審査の結果、証明は確認され、ワイルズのフェルマー予想解決が認められた。この予想がフェルマーによって提起されてから実に360年後のことであった。国際数学連合のフィールズ賞には40歳以下という制限があるため受賞を逃したが、その顕著な業績に対して異例の特別賞が贈られた。
著者サイモン・シン氏のプロフィールを紹介する。サイモン・レーナ・シン(1964年1月1日 - )は、プロデューサー、ジャーナリスト、サイエンス・ライター。インドパンジャーブからの移民である両親を持ち、イギリス南西部サマーセット州に生まれる。 インペリアル・カレッジ・ロンドンで学び、その後ケンブリッジ大学大学院にて素粒子物理学の博士号を取得。 のちにテレビ局BBCに就職し、ドキュメンタリー番組『フェルマーの最終定理――ホライズンシリーズ』にて各種の賞を受賞した。後にこの番組はエミー賞にもノミネートされた。この時の取材を元に書下した「フェルマーの最終定理」(本書)も高い評価を受けベストセラーとなる。 受賞歴は1996年 - 英国アカデミー賞、2003年 - 大英帝国勲章、名誉博士号(ラフバラー大学)、2005年 - 名誉博士号(サザンプトン大学)、2008年 - ケルヴィン・メダル(イギリス物理学会)を受けた。
翻訳者青木薫氏のプロフィールを紹介する。青木氏は1956年山形県生まれ、京都大学理学部卒業、1984年同大学院博士課程修了、「原子核間ポテンシャルのパリティ依存性及び角運動量依存性に関する微視的研究」で理学博士。専門は理論物理学。2007年度日本数学会出版賞受賞。科学書の翻訳家でなる。翻訳書は今までに60冊を超えている。著書には「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」(講談社現代新書 2013)がある。

フェルマーの最終定理(17世紀 フランス)を遡れば、デイオファントスの「算術」(紀元前3世紀 アレクサンドリア)にあり、デイオファントスの算術を遡ればピタゴラス数(紀元前6世紀 ギリシャ)が源泉となる。そこでピタゴラス数すなわち、直角三角形の3つの整数の辺の長さについて、大矢真一著 「ピタゴラスの定理」(東海大学出版会 2001年8月)よりまとめておこう。三つの辺の長さがすべて整数でありa^2+b^2=c^2を満たす直角三角形の辺の組のことを「ピタゴラス数」という。大昔どうして見つけたのかは一切明らかではない。そこで推測であるが、第1段でその整数の二乗を順に書いてゆく。第2段で二乗の数の差を一つ置きに求める。ピタゴラスの四角数と同じようにすると
第1段: 0 1 4 9 16 25 36 49 64 81 100 121 144 169・・・・・
第2段:   4 8 12 16 20 24 28 32 36 40 44 38 52・・・・・
3^2+4^2=5^2より(3,4,5)、6^2+8^2=10^2 より(6,8,10)=(3,4,5) また8^2+15^2=17^2より(8,15,17)などが得られる。これからすべてのピタゴラス数が得られるはずであろうが、大変なことである。もう少し規則的な方法はないのだろうかと古来いろいろな公式が工夫されてきた。ピタゴラスの方法(推測)は前に示した。プラトン、プロクルス、ユークリッド・ジオファントス、ジオファントスの方法がある。そこで最もポピュラーなユークリッド・ジオファントスの方法によるピタゴラス数の求め方を示す。

直角三角形
 ①倍角の公式 ②∴ ③∴

①②③より、 a = k(1 - t^2) ,b = k・2t ,c = k(1 + t^2)   …④ 
a, b, cは自然数なので t は有理数である。よってt = n / m   …⑤ とおくことができます。ここでm, n は互いに素であり、0 < t < 1 より0 < n < m となります。④⑤より、
   a = k(1 - t^2) = k(1 - n2/m2) = k/m^2 (m^2 - n^2) = k'・(m^2 - n^2)
   b = k・2t = k(2 ・ n/m) = k/m^2 ・ 2mn = k'・2mn
   c = k(1 + t^2) = k(1 + n^2/m^2) = k/m^2 (m^2 + n^2) = k'・(m^2 + n^2)
ここで、m - n は奇数としてよい。これらのことからピタゴラス数は、

 (a, b, c) = (m^2 - n^2, 2mn, m^2 + n^2)  (m, n は互いに素であり0 < n < m、m - n は奇数)

ピタゴラス数表(一部)
ピタゴラス数表
こうしてディオファントスは無限に存在するピタゴラス数を求める一般的な方法を示した。(a,b,c)という辺の長さの二乗の関係式がピタゴラスの定理であり、ここまでは幾何学であった。つぎにディオファントス方程式とは、整係数多変数高次不定方程式である。主に数論の研究課題と考えられている。古代アレクサンドリアの数学者ディオファントスの著作『算術』で、その有理数解が研究されたのにちなんだ名称である。ピタゴラスの方程式(2次)、楕円曲線(3次、4次)もディオファントス方程式の特殊例であった。フェルマーの最終定理とは、3 以上の自然数 n について、x^n + y^n = z^n となる自然数の組 (x, y, z) は存在しないという定理のことである。本書の目的はフェルマーの最終定理の証明を厳密に述べることではない。そんなことを書いても数学者でさえ理解できるのは1割くらいであり、一般読者では理解できる人は皆無であろうと思われる。だから本書は17世紀以降の数論に寄与した数学者の業績と、フィルマ―の最終定理に関係した現代数学者の群像を描くことである。

1) ピタゴラスの定理からフェルマーの最終定理へ
1993年6月23日、ケンブリッジ大学のアイザック・ニュートン研究所で数学の特別講演会が行われた。セミナーの題目は「L関数と数論」であった。講師はプリンストン大学教授でイギリス人のアンドリュー・ワイルズである。時にワイルズの年齢は40才の大台に乗っていたし、この7年間数学界ににはめっきり姿を見せなかったため、もうワイルズの数学者としての寿命はかれてしまったのかと噂されていた。実はワイルズはこの7年間というもの、数学最大の問題を解決すべく完全な秘密のうちに研究を続けていたのであった。数学者アルフレッド・アーサーは「数学者の数学的寿命は短い。25才、30歳を過ぎると成果を上げられる見込みはない」とさえ言う。ハーディーも「若い人は定理の証明をすべきであり、老人は本を書くべきである」という。王立協会の会員になる年齢は数学者が一番低い。ラマヌジャンは31才で王立協会会員になった。19世紀のノルウエー人アーベルは20才で代数学の畢竟の大仕事をし、ガロアも10代で大きな仕事を成し遂げ21歳で世を去った。ワイルズが秘密主義を取ったのは成果の独り占めであるが、反面大きなつけを払わなくてはならない。それは自分のアイデアを数学者と協議し検証したりして、大きな誤りを未然に防ぐことができないという可能性があるということである。ワイルズは1963年10歳のころから数学の問題の虜になっていた。ワイルズ少年は近くの図書館に通って、ベルによる「最後の問題」という数学の歴史が書かれており、17世紀フランスのフェルマーが遺した問題に夢中になった。フェルマーの最終定理とはピタゴラスの定理に基づいており「直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい」から出発している。ピタゴラスは紀元前6世紀の古代ギリシャ人で、サモスの賢者といわれ「数には数の論理がある」という思想を抱き、ミロンの援助のもと秘密の数学者集団「ピタゴラス教団」を設立した。弟子の数は600人ほどで、数を神とする宗教集団の様であった。自然数と分数(二つ合わせて有理数をつくる)に関心を寄せた。なかでも「完全数」(その数の約数の和がその数に等しい) たとえば6の約数は1,2,3でありその約数の和は1+2+3=6であり元の数の同じになる。そして完全数は常に連続した自然数の和にひとしい。6=1+2+3、28=1+2+3+4+5+6+7・・・である。そして完全数は2のベキ数と密接な関係にあり、2のベキ数の約数の和はつねにその数より1少ないことを見出した。2の2乗=4 約数の和 1+2=3 2の3乗=8 約数の和 1+2+4=7  2の4乗=16 約数の和 1+2+4+8=15・・・である。さらにユークリッドは完全数はつねに二つの数の積で表され、その一方は2のベキ数、片方は2のベキ数から1を引いたものになることを発見した。6=2×3=2^1(2~2-1) 28=4×7=2^2(2^3-1)・・・ピタゴラス数リストに見るように、辺の長さが1少ない二辺の例が多いのもそのせいである。ピタゴラスは自然現象と数の関係にも興味を持ち、自然法則は数式で表せることに気が付いた。特に弦の分割と振動数(音程)の関係は顕著である。円の直径と円周の比が一定であること(円周率π)は古代エジプト人の発見による。ピタゴラスは「万物は数なり」と言い切った。数学の定理は、一連の公理から出発し論理的なプロセスを経て得られた結論が定理である。この点が仮説を設ける物理学とは本質的に異なる。こういう数学の論理が古代ギリシャ時代から構築されていたことは驚異である。ピタゴラスの定理は幾何学的要素が強かったが、時代が進むにつれ代数学要素(関数方程式)が強くなった。二つの整数の二乗の和が一つの整数の二乗に等しい解の組み合わせをピタゴラス数(a,b,c)といい、その組み合わせは無限にある。ピタゴラス数の命題の一般化はベキ数を3以上にすることから始まった。x^3+y^3=z^3の整数の解があるのかであった。どうやら3乗の方程式を満たすような3つの数は求まらなかった。17世紀のフランスの数学者フェルマーは、誰にも解が見つけられないのは解が存在しないからだという主張をしたのだ。そしてフェルマーから300年あまり、世界の数学者は書かれなかった証明法をめぐって悪戦苦闘したがその試みはすべて失敗に終わった。その証明法が1993年6月23日、ワインズによってケンブリッジ大学のアイザック・ニュートン研究所で発表された。200名いた聴衆から祝福の喝采があがった。この本はそのサイエンスストーリである。

2) 数論
ピエール・ド・フェルマーはフランスグランドセルブのフランシスコ会修道院からトゥールーズ大学に進んだ。役人の道を選び、1631年にはパリにいる王に請願をする時の地域の受付である「請願委員」に任命された。王と地方を結ぶ重要なパイプ役であった。そしてフェルマ―は裁判所の参事官も兼ねていた。フェルマーは社交界の名士となり、トゥールーズ議会の勅選議員に選ばれた。フェルマーはアマチュアの数学者であったが、余りにも優れていたのでプロの数学者として扱われた。その時代数学のアカデミックの地位は低く、生活は自己資金に頼った生活であった。だから17世紀の数学者はほとんどアマチュアであったといえる。欧州で数学を奨励していたのはオックスフォード大学のみで、1619年幾何学のサヴィル講座を創設した。パリではパスカル、ガッサンディ、ロヴェルヴァル、メルセンス神父らが参加する小さな数学者のサークルがあった。当時商人に雇われる計算のプロ職人(今でいう会計士か)がいたが、秘密主義的傾向が強かった。代数学の計算技術として、三次方程式を解くことを発見したタルターリアとジェラモ・カルダーノの喧嘩は有名である。パリにやって来たメルセンス神父はこうした秘密主義と戦い彼らのサークルは「フランス学士院」の中心メンバーとなっていった。メルセンヌがフランスを旅行してフェルマーと接し、フェルマーの目を大きく開かせた。しかしフェルマーが発見した数学上の多くの定理について、メルセンヌ神父が証明を示すように勧めたが、フェルマーは頑として定理を証明付きで開示することはなく、むしろ挑戦的にできるなら証明してみろと言わんばかりであったという。 問題は示すが解法は隠すというフェルマー流のやり方は数学者を困らせ、その定理の証明が難しければ難しいほど彼の名声を獲得するチャンスはなくなり、学界から忘れ去られる危険性の方が高かった。フェルマーとパスカルの文通によって「確率論」の定理が生まれた。またフェルマーは「微積分学」の創始者の一人であった。ニュートンは「フェルマーの接線の引き方」に基づいて微積分法を発明したのである。微積分学と確率論という実用性の高い数学の分野の創設にかかわっただけでなく、フェルマーは何の役にも立たない「数論」を最も愛したと言われる。 ピタゴラスの教団が滅んだあと、200年も経つと数学研究の中心はクロトンからアレクサンドリアに移った。アレクサンドリアに初めて図書館ができたのは、アレクサンドリア大王の将軍だったプトレマイオス1世がエジプト王になった時からのことである。世界中の学術書の写本をアレクサンドリアの図書館に集める使命を負ったのはデメトリオという人物であった。その数学部門の責任者が、ユークリッドであった。ユクリッド(紀元前330年生まれ)が著した「原論」13巻は史上最高のロングセラーとなり、ユークリッドの業績が3巻で、あとは冬至の数学的知識の集大成で会った。そのうち2巻はピタゴラス教団の業績である。ユークリッドが多用した論理のテクニックに「帰謬法」、「背理法」であった。背理法によるユークリッドの証明で一番有名なのは「無理数」の数存在を立証したことである。ピタゴラス教団は無理数(例えば√2や円周率π)を隠蔽して有理数までで考えを束縛した。しかし無理数を小数で表そうとすると、規則性もパターンもない数が無限に続いてしまう。ユークリッドは√2が分数では表記できないことを証明するために背理法を用いた。√2=1.414213562373・・・の少数はあくまで近似値で、永遠に記述することは終わらないのである。ユークリッドは数論に関心を持っていたことは確かであるが、彼の業績は「幾何学」にあった。原論全13巻のうち、第1巻から第5巻までは平面幾何学、第11巻から第13巻までが立体幾何学が扱われている。

数論の領域でユークリッドに匹敵する業績を上げたのはアレクサンドリアのディオファントスの「算術」である。AD250年ごろのアレクサンドリアの人であった。全13巻のうち半分が中世を生き延びてルネッサンス期の数学者に多大な影響を与えた。アレクサンドリアはユークリッドからディオファントスの数世紀間、文明世界の知的首都であった。しかしAD389年キリスト教の皇帝テオドシウスによって破壊され、AD642年征服したイスラム教国によってわずかに残っていた図書館は灰燼に帰した。それから千年近く西洋の数学は沈滞し、その燈火はアラビアやインドで受け継がれた。インドでは数学にゼロという新しい要素が数に加わった。またアラビア数字は計算に便利で広く普及し、ゼロと併せて位取りや計算が非常に容易になった。10世紀になってフランスではスペインのムーア人からこの記数法を学び、西洋に広く伝わった。西欧の数学にとって一大転機となったのは1453年のオスマントルコによるコンスタンチノープル掠奪によって、アレクサンドリから避難してきた書物がまた破壊の危機にさらされた。「算術」の貴重な数巻が西欧へ避難し、デイファントスはフェルマーの机上に登ることになったのである。フェルマーは特定の数学者の影響を受けたという記録はないが、ディオファントスの「算術」がフェルマーを導いた。フェルマーが読んだ「算術」は1621年出版のガスパール・パシェのラテン語訳であった。フェルマーは「算術」の本の余白に、論法やコメントや自分の発見したもっと難しい問題を走り書きをした。フェルマの発見した「友数」という数の問題がある。ピタゴラスの「完全数」と深い関係にある数で、一方の約数の和が、片方の「数の約数の和になるという関係である。たとえば280の約数は1,2,4,71,142でその和は220であり、220の約数は1,2,4,5,10,11,20,22,44,55,110でその和は284である。284と220は友数と呼んだ。ピタゴラス教団は(220、284)しか友数を発見できなかったが、フェルマーは(17296,18416)を発見した。後にデカルトは(9363584、9437056)を発見し、そしてオイラーは何と62組の友数を発見した。20世紀になってこの数論の延長で「社交数」という数の組が発見された。一番目の数の約数の和が2番目の数になり、2番目の数の約数の和が3番目の数になり、3番目の数の約数の和が一番目の数となるというループの関係である。この数の問題(お遊びに近い)はそれほど深い話ではなく他の分野への影響もなかった。ディオファントスは「不揃いの三角形」を構成する3つ組の数について述べている。2つの短辺の値が1しか違わないピタゴラスス数である。無数にあるが中でも(20、21,29)は20^2+21^2=29-2というピタゴラスの定理を満たす数である。この数の組が無数に存在することはユークリッドが証明したことは上の「ユークリッド・ジオファントスの方法」によるリストに示した通りである。フェルマーはピタゴラスの方程式x^2+y^2=z^2を見ている時、突然z^3+y^3=z^3を思いついた。これに解があるのだろうか。もっと一般にはx^n+y^n=z^n (n≧3)の解を求める問題である。そして「算術」の余白に「ある3乗数を2つの3乗数の和で表すことは不可能である」そしてさらに「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここには記することはできない」と書いた。この思わせぶりな書き方がフェルマーの真骨頂である。1665年1月12日フェルマーは亡くなったが、フェルマーの書き込みは誰に読ませるために「書かれたわけでもないので、あやうく永遠に失われる運命にあった。長男のサミュエル・フェルマーが5年の歳月を費やして「算術」への書き込みを整理して、1670年「フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術」を刊行した。そのメモの確証を取る作業は後世の数学者の宿題となった。18世紀最大の数学者オイラーは「素数定理」の証明に取り組んだ。素数は約数を持たない数で、4n+1,4n-1で表される数である。フェルマーの素数定理とは4n+1で表せる素数は常に2つの2乗数の和となり、4n-1で表される素数はそうは表せないという。オイラーは1749年この素数定理を証明した。フェルマーが遺した定理のどの一つにも厳格な証明がなされなければならない。定理こそは数学の土台である。なぜなら一度証明されればその上に安心して他の定理を築くことができるからだ。フェルマーの定理も万人が納得できる方法で証明されなければ「フェルマーの最終予想」と呼ばれる。証明ができていない問題は多数ある。」「リーマン予想」もそうである。

3) フェルマーの最終予想
300年間解けなかったフェルマーの最終定理にワイルズ少年は夢中になった。偉大な数学者が挑んで失敗しているからこそ、この問題に取り組む価値があると考えた彼は、先人たちの方法を調べた。なかでも最も注目すべき数学者は18世紀のスイスバーゼル生まれのレオンハルト・オイラー(1707-1783年)である。この人こそフェルマーの最終定理の解明に向けて大きな一歩を踏み出した偉人なのである。オイラーは欧州では「解析学の権化」と呼ばれた。オイラーにとって幸運だったことは同じバーゼルにベルヌーイ一家が住んでいたことであった。ヨーロッパ中で最も優れた数学者一族の勧めでオイラーは数学者の道を歩み始めた。18世紀のヨーリッパで数学者の価値がようやく認められるようになったのは、アイザック・ニュートン(1642 - 1727年)の業績によるところが大である。17世紀はヨーロッパの科学革命の只中にあった。王侯諸国は科学に実用的な価値を認めて大いに奨励した。オイラーは最初帝政ロシア宮廷に招かれ、そしてプロイセンのベルリン学士院から最後はロシアの女帝エカテリーナの下で数学研究に励んだ。オイラーの業績の中でもっとも偉大なものの一つにアルゴリズムによる方法の開発がある。たとえば月、地球、太陽の3体問題は最初から解けないことは分かっているが、実用的に厳密解ではなく近似解を得るならば、大雑把な答えを設定しアルゴリズムに基づいて計算し、それをアルゴリズムにフィードバックしてより正確な近似解を得るという計算方法である。このプロセスを繰り返せば、軍事目的程度の精度で月の位置が分かるという方法である。今ならコンピューターで数百回の計算は瞬時にできる。漸近的数値解析法と言える。オイラーの興味を引いたケーニヒベルグの町の橋にちなむパズルがある。すべての橋を一度だけ渡るならば川の中島に架かる橋は偶数個あればよい。いわゆる一筆書きの問題をオイラーはネットワークの問題として考えた。ネットワークを点と線だけで表すと、頂点の数+面の数ー辺の数=1というオイラーン関係式を導いた。オイラーはフェルマーの最終定理の問題をネットワークの方法と同じように、n次のピタゴラス方程式のいずれかに解がないことを証明し(フェルマーはn=4で解がないことを証明したという)、背理法の一種である「無限降下法」をつかってn=3にたどり着こうとする方法である。ここでオイラーはおはこの虚数を使った。オイラーによって数の概念が飛躍的に拡大し、理論化された。複素数の数平面が定義された。しかし残念なことにn=3の時しかこの方法は使えなかったので、フェルマーの挑戦には敗北した。フェルマーはn=4次には解がないことを証明し、オイラーはn=3次には解がないことを証明した。それは大きな一歩であったがそれより大きなn次方程式にの前には遅々として進まなかった。n=3,6,9,12,15・・・やn=4,8,12,16,20・・・の場合にはオイラーやフェルマーに方法は成り立つ。n=3は素数である。素数の場合が証明できれば非素数の場合は素数に分解できるから証明できるので大多数の方程式は無視してもいいにもかかわらず、nが素数の方程式はやはり無限に存在する。カント―ルの「無限」の集合の概念に依れば、自然数は無限の大きさを持つように、偶数も自然数と1対1の対応が取れるから無限である。すなわち部分が全体と同じ集合の大きさになる。無限に無限を加えても無限である。有理数と無理数とは1対1に対応させることはできないので、無理数の無限集合は有理数の無限集合より大きいことが示される。無限集合の大小の比較はできるのである。素数理論は応用の少ない分野であるが、1970年頃からマーティン・ヘルマンらは軍隊や外交の暗号文作成と解読にはなくてはならない技術を提供している。フランスの女性数学者ソフィー・ジェルマン(1776-1831年)はフェルマーの最終定理の研究に革命を起こして貢献した。ソフィー・ジェルマンの定理とは、2p + 1 が素数であるような素数 p について、x^p + y^p = z^p が成り立つとき、x, y, z のいずれかが p で割り切らねばならない。たとえば x5 + y5 = z5 が成り立つとき、x, y, z のいずれかは 5 の倍数である。また、この定理に現れる 2p + 1 が素数であるような素数 p をソフィ・ジェルマン素数という。この定理を尊敬するカール・フリードリヒ・ガウスとの書簡の交換の形で発表した。いまnをジェルマンの素数とすると、x^n+y^n=z^nにはおそらく解がないことを証明したのである。その線に沿って1825年ディリクレとルジャンドルの二人は独立に、n=5の時解がないことを証明した。またガブリエル・ラメはn=7の場合を証明した。1847年フランス科学学士院はフェルマーの最終定理の解決にたいしてメダルと賞金を懸けた。ラメとルイ・コーシーが名乗りを上げ解決に近いことを宣言した。コーシーとラメの証明の根本的な問題は、どちらも素因数分解の一意性と呼ばれる性質に依存していた。素因数分解の一意性は紀元前4世紀のユークリッドが発見したものであった。コーシーとラメの方法には虚数が含まれており、虚数には一意性が成り立たたないことを、数論の研究者クンマーが発表した。クンマーはn=31以下のすべての素数については一意性の回避は可能であったが、n=37,59,67(100以下の範囲で)では回避は不可能であることを示した。このような素数を「非正則素数」という。完全な証明を阻む障害となっていた。クンマーが示したのは、当時の数学のテクニックではフェルマーの最終定理は完全には証明できないということであった。

4) 抽象性
クンマーの主張でフェルマーの定理は迷宮入りしたかのようであった。数学の最先端はフェルマーの最終定理から離れ、科学の錬金術と同じように忘れ去られた感が強くなった。ところが1908年になってドイツの資本家で数学者のパウル・ヴォルフスケールが新たな刺激をもたらした。彼自身がクンマーの証明を検証し、フェルマーの最終定理の証明は達成不可能のように見えたが、彼は自分の財産をなげうってゲッチンゲン王立協会にヴォルフスケール懸賞が委託された。期限は100年とするものであった。世界中のマチュア数学者がヴォルフスケール懸賞を狙ったが、ますます迷宮に踏み込むだけであった。数論で使われる技法はとても抽象的で、論理を誤って不合理の森に彷徨うことが必至でアマチュアの出る幕ではなかった。ここで本書はサム・ロイド(1841-1911)のパズル・ゲームの理論を展開したことをエピソードとして挿入している。パズルの無秩序さを表す変数Dfの不変量が、あるものを別ものに変換するのは不可能だという時に重要な戦略となる。問題の抽象性の好例がゲーム理論だったというだけで、フェルマーの最終定理に関係した話ではないのでしょ言う略する。数学者は19世紀のクンマーの数論研究の上に立つのではなく、数学の基礎に関心が向かっていた。バートランド・ラッセル、ヒルベルト、クルト・ゲーゲルなど20世紀の大数学者は数学基礎論において、数論はどんな問題を解決できるのか、できないのかを議論し、そうしてフェルマーの最終定理に立ち返ったのである。数理論理学者らは数学の論理構造を研究し始めた。非常に基本的であるがために証明できない命題を公理という。代数の公理の一例として「加法の交換法則」がある。m+n=n+m 子の交換法則を含む億塚の公理が自明と見なされ、とてつもなく複雑な知識体系を丸ごと再構築する作業に数理倫理学者が参加した。ドイツの数学者ヘルマン・ワイルは「論理とは、数学者がっそのアイディアを強健にするための健康法である」と述べている。この計画を率いたのが、ドイツの随一の数学者ダーフィット・ヒルベルト(1862-1943年)である。ヒルベルトは、少数の公理ウィ仮定することによって、数学におけるすべての問題は矛盾なく答えられると確信していた。1900年8月パリで開かれた国際数学者会議で23の未解決問題を提示した。ヒルベルトは「我々は知らねばならない。我々は知るであろう」と宣言した。これをヒルベルト・プログラムと呼ぶ。ゴットローブ・フレーゲ(1848-1925年)がその先頭に立った。フレーゲは「算術の基本法則」で数そのものを定義した。ある集合が3つの要素からできているものはその集合が3に含まれている場合だけである。ところがイギリスの論理学者バートランド・ラッセル(1872-1970年)は論理学の矛盾にぶつかった。フレーゲの集合の概念からラッセルのパラドックスを発見した。「集合は、ある時はそれ自身の部分要素となり、ある時はそうではない」ということである。背理法は数学にはパラドックスはない上に立っている。ところが公理からさえ矛盾が導かれる可能性が出たのである。1910年ラッセルは「プリンピキア・マスマテイカ(数学原理)」を著し、パラドックスを提示した。矛盾を阻止する一つの方法は、集合がそれ自身の集合の要素になることを阻止すればいい。ところが1931年25歳のクルト・ゲーゲル(1906-1978年)は、数学は論理的に完ぺきではあり得ないことを証明した。これを「不完全性の定理」と呼ぶ。定理は2つの定理から構成され、①公理的集合論が無矛盾ならば、証明することも反証することもできない定理が存在する。②公理的集合論の無矛盾性を証明する構成的手続きは存在しない というものであった。つまり無矛盾性はけっして証明できないことで、ゲーデルはヒルベルトプログラムは遂行不可能だということを示したのである。①の定理は「私はウソつきだ」というクレタ人のパラドックスと呼ばれる。数学基礎論のヒルベルト・プログラムとゲーデルの不完全性定理については、C・リード著 彌永健一訳 「ヒルベルトー現代数学の巨峰」(岩波現代文庫 2010年7月) と、ゲーデル著 林晋・八杉満利子訳・解説 「不完全性定理」(岩波文庫 2006年9月) に述べた。1963年スタンフォード大学のコーエンはヒルベルトの23の問題のうち、連続体仮説が決定不可能であることを証明した。これらのことでフェルマーの最終定理の証明に暗雲が垂れ込めた。ひょっとするとフェルマーの最終定理の証明が難しいのではなくて、証明不可能なのではないかという疑心暗鬼である。1930年頃までにフェルマーの最終定理の証明に使える数学手法が底をついていたことも悲観論の生まれる素地であった。戦後のコンピューターの数値計算によってn次方程式の解がないことを、n=1000まで証明していったところで、無限につづくすべてについて証明することはできない。こういうことで数学者はコンピューターの結果は証明とはみなさないのである。オイラーはフェルマーの方程式に似た4変数の4次方程式 x^4+y^4+zx^4=w^4には自然数の解がないと予想した。しかしハーバード大学のノーム・エルキースはその解を求めかつ無数の解があることを証明した。1791年15歳のカール・ガウスが出した「過大評価素数予想」(素数の出現頻度が減ってゆくことを予想したが、いつも結果は多い目の予想だった)を、1914年ケンブリッジ大学のJ・Eリトルウッドが十分大きな素数の領域ではガウス予想は過少になること、そして1933年にはS・スキュースが過少になる境界の素数の大きさを決定した。ということで偉大な数学者の予想が外れることもしばしばあるので、フェルマーの最終定理(予想)も外れかも知れない。1975年、さてここからケンブリッジ大学大学院生となったアンドリュー・ワイルズの数学研究者としての第1歩に入ろう。大学院の数学指導教官はジョン・コーツであった。フェルマーの最終定理に取り組むまえに、プロの数学者として実際的なテクニックを学ばなければならない。既存の方法は130年前から停滞したままであった。そこでワイルズはフェルマーの最終定理は棚上げにして、コーツ先生の指導により「楕円曲線論」をテーマとした。注意すべきは、それは楕円という幾何学的な曲線ではなく、y^2=x^3+ax^2+bx+c(a,b,cは任意の整数)の方程式の事である。こういった方程式はかって楕円の周や惑星軌道の長さの計算に用いられたことから命名された。楕円方程式に整数解があるかどうかの見極めは非常に難しい。簡単な例でa=0,b=0,c=2の場合、y^2=x^3-2の整数解は(y=5,x=3)だけである。この証明をフェルマーがやった。25(=5^2),26,27(=3^3)という有名な数列である。2乗と3乗に挟まれた唯一の数が26である。一般的な楕円方程式のa.b.cの値をかえるだけで、独自の性質を持つ方程式が生まれ、しかもそのすべてが解ける領域に属している。たとえばx^3-x^2=y^2+yを正攻法で行っても勝ち目はない。解(x,y)として(0,0)あるいは(1.0)は解であることは容易にわかる。それ以外の解では有限な数の中で解を求めるならば、剰余を法とする系列化がある。先の楕円方程式の解の個数はE5=4(5を法とする解は4個)と呼ぶ。楕円方程式から導出された系列をE系列と呼ぶ。こうしてワイルズとコーツは楕円方程式とE系列についての数論専門家としての地位を確立した。

5) 背理法 谷山・志村予測
ここでフェルマーの最終定理の証明にカギを握ることになる日本人数学者、東京大学の谷山豊、志村五郎の業績(楕円方程式のモジュラー型式)について述べておかなければならない。谷山は127年の生まれ、志村はその2年下であった。この二人が数学史の流れを変えるパートナーシップを組むのである。1954年に初めてであった頃大学の数学科は立ち直っていなかった。だから自分たちで勉強をし、「モジュラー形式」のセミナーを開いた。数論研究者のマルティン・アイヒラ―は数学の基礎演算を、加法、減法、乗法、除法、モジュラー形式だと述べた。数学的対象に何らかの変換を施しても全く変化がない性質を対称性と呼ぶたとえば正方形は回転対称性、鏡面対称性、併進対称性を持つことは容易に理解できる。1970年イギリスの物理学者ベンローズは二つの複雑な形状を持つタイルを考案し、無限の平面に敷き詰めることができることを示した。また1984年アルミとマンガンの合金の準結晶がベンローズのタイル張りと同じ構造を持つことが分かった。モジュラー形式は無限の対称性を持つ。谷山と志村の研究したモジュラー形式は、併進、切り替え、交換、鏡映、回転に対して高い対称性を持つ。しかしモジュラー形式は抽象性の高い、二つの複素軸で定義される。モジュラー形式はこの複素空間の上半分に存在し、この空間が4次元(x1,x2,y1,y2)だということである。この4次元を空間を「双曲線空間」という.。双曲線空間に存在するモジュラー形式には、いろいろのものがあるがすべては同じ構成要素からなる。その構成要素の数によってモジュラー形式のつがいが生み出される。これをM系列、すなわちモジュラー系列で表される。モジュラー形式という領域は数学の中でも他の領域とのつながりが極めて弱い。モジュラー形式と楕円方程式は恐ろしくかけ離れた世界であったし、誰も少なくとも関連性があるとは考えなかった。ところが谷村と志村は楕円方程式とモジュラー形式とは実質的に同じではないかと言いだして数学界に衝撃を与えた。1955年日光で行われた数学国際シンポジウムにおいて谷山は、どの楕円方程式も何らかの方法で保型形式と関係づけられるのではないかという提議であった。谷山はドイリングやアイヒラ―ラの研究を調べることによって、2,3の楕円方程式のE系列は保型形式のM系列に対応していること発見した。この発見は直ちにすべての楕円方程式に関連するとは言い難かった。谷村は楕円方程式は皆モジュラー形式とつながっていると提案したのである。電磁気学における、アインシュタインの特殊相対性理論を生んだ電界と磁界の関係と似ている。ところが谷山は31才の1958年結婚をまじかにして自殺した。理論の完成を待たず惜しむべき日本の天才数学者を失った。はじめこの予想は「谷山・志村予想」と呼ばれた。谷山・志村の予想を西洋に紹介したのは20世紀数論の祖アンドレ・ヴェイユで「谷山・ヴェイユ予想」、或は「ヴェイユ予想」と呼ばれるようになった。谷山・志村予想は、「すべての有理数体上に定義された楕円曲線はモジュラーであろう」という数学の予想で後に証明されて定理となったので、モジュラー性定理またはモジュラリティ定理 と呼ばれることもある。1960年代のころ、プリンストン高等研究所のロバート・ラングランスは、谷山・志村予想に込められた内容に衝撃を受け、数学の統一に向けた数多くの予想問題を一つ一つ証明してゆくラングランス・プログラムを提唱し世界中の数学者の参加を呼び掛けた。1970年代にはこのプログラムは数学の未来像の青写真となったが、残念ながら現実的アイデアを持つ数学者がいなくて立ち消えになった。1984年ドイツシュワルツヴァルトで数論研究者のシンポジウムが開かれた。楕円方程式がテーマであった。そこでゲルハルト・フライが何の確証もなかったが、谷山・志村予想を証明することがそのままフェルマーの最終定理の証明につながるという驚くべき主張をしたのである。フライはフェルマーの解A,B,Cがあるなら、並べ替えられた方程式はy^2=x^3+(A^N-B^N)x^2-A^NB^Nという形をとるはずだという。そしてこの方程式は楕円方程式であることを示した。もしもフェルマーの方程式に解があるなら、フェルマーの最終定理は成り立たたず、並べ替えられた方程式が存在するはずだという、背理法を提言した。こうしてフライはフェルマー方程式を楕円方程式に変形することによって、フェルマーの最終定理を谷山・志村予想に結び付けたのである。もしあるとすればフライの楕円方程式が余りに異常な方程式でモジュラー形式に結び付きそうにない。フライの論理をまとめると次のような仕組みになる。
① もしもフェルマーの定理が成り立たたないならば、その場合はフライの楕円方程式が存在する。
② フライの楕円方程式は極めて異常な性質を持つので、モジュラーではありえない。
③ 谷山・志村予想によると、すべての楕円方程式はモジュラーでなければならない。
④ ゆえに、谷山・志村予想は成立しない。
さらに重要なことは、この論理を逆転させられることである。すると次に様な論理展開となり、フェルマーの最終定理の真偽が、谷山・志村予想が証明できるかどうかにかかっているというドラマティックな結論を導いた。
1') もし谷山・志村予想が証明できれば、すべての楕円方程式はモジュラーでなければならない。
2') もしもすべての楕円方程式がモジュラーなら、フライの楕円方程式は存在しえない。
3') フライの楕円方程式が存在しないなら、フェルマーの方程式は解を持たない。
4') ゆえに、フェルマーの最終定理は成り立つ。
フライの楕円方程式はモジュラーでないと証明することに、世界中の数学者は頭を抱えた。この線で動いている数学者の一人にカルフォニア大学バークレー校のケン・リベット教授がいた。1986年バリー・メーザーとリベットが討議して、「M構造のγゼロを加えるアイデアで、谷山・志村予想が成り立てばフルマ―の定理も成立する(すべての楕円方程式がモジュラーになれば、フェルマー方程式には解がない)ことにつながった。こうして数学者たちは、背理法を使ってフェルマーの最終定理に挑戦できるようになった。これまで30年以上も谷山・志村予想に挑戦して失敗してきた歴史を乗り越えたのがワイルズだったのである。楕円モジュラー複素関数の、クライン関数、ラムダ関数、世面体関数、イーター関数、アイゼンシュタイン関数の画像が面白いので参考のために示す。とにかく楕円関数論は面白く今なおホットな領域である。

クライン関数  ラムダ関数  正4面体関数    デデキントイーター関数  アイゼンシュタイン関数
クラインK関数                 ラムダλ関数               正4面体A関数              デデキントイーターη関数           アイゼンシュタインE関数
6) ワイルズ7年の秘密裡の研究
5章をまとめると以下になる。谷山・志村予想は、1955年9月に日光の国際シンポジウムで谷山豊が提出した2つの「問題」(問題12と問題13)を原型とする。これらの問題が互いに関連しているらしいことは谷山も気付いていたが、実は同じ命題の言い換えであることが後に判明した。谷山自身は若くして自殺したため、1960年代に谷山の盟友である志村五郎によって、代数幾何学的な解釈によって正確に定式化された。その後、1967年のヴェイユによる研究によって広く知られるようになった。内容的に「ゼータの統一」というテーマを扱う豪快な予想であり、数論の中心に位置するものの一つと目されるまでにいたったが、攻略自体は絶望視されていた。1984年秋、この予想からフェルマーの最終定理が出るというアイディアがゲルハルト・フライにより提示され、セールによる定式化を経て(フライ・セールのイプシロン予想)、1986年夏にケン・リベットによって証明されたことにより俄然注目を集めたが、アンドリュー・ワイルズを除いては、まともに挑もうとする数学者は依然として現れなかった。アンドリュー・ワイルズ(プリンストン大学教授)により、この予想はまず半安定な場合について解決された(1993~1995年)。ワイルズが1993年に発表した証明には一箇所致命的なギャップが存在したため、その修正に当ってはリチャード・テイラーも貢献した。1994年9月、ワイルズはギャップを回避することに成功し、修正された証明は翌1995年に2編の論文として出版された 。このことにより、ワイルズは谷山・志村予想の系であるフェルマー予想をも解決した。アンドリュー・ワイルズ は、半安定楕円曲線の谷山・志村予想を証明し、それによってフェルマーの最終定理を証明した。20世紀の偉大な数理論理学者ヒルベルトや、ワイルズの恩師コーツ教授らはフェルマーの最終定理には取り組まなかった。誰も谷山・志村予想を証明できるとは思っていなかったからである。労多くして功なしとして敬遠したのである。この第6章に至って初めてワイルズの研究の詳細に入る。30代になってワイルズは冒険をする気になった。楕円方程式とモジュラー形式に関するあらゆる数学を1年半かけてマスターした。フェルマーの最終定理に関係ない研究からは一切手を引き、学会にもあまり顔を出さなくなった。そして自宅に引きこもり集中した。ワイルズはこの証明を完全な秘密のうちに一人で仕事を進める決心をした。しかもコンピューターを使わず、鉛筆と紙と自分の頭脳だけで証明に挑んだ。その証明の出発点は「帰納法」という方法で、たった一つの証明だけで無限問題に向かう方法である。帰納法は高校時代に習ったように、次の二つの手順からなる。①最初の場合に命題が真であることを証明する。n=1 ②命題がある場合に真ならば、すぐ次の場合にも真であることを証明する。n'=n+1 ワイルズは無限に存在する楕円方程式の一つ一つが、無限に存在するモジュラー形式の一つ一つに対応することを帰納法によって証明することであった。そしてそのために19世紀フランスの天才エヴァリスト・ガロアに注目した。エヴァリスト・ガロア(1811-1832年)は数学への情熱以上に共和派革命に命を捧げ21歳にして銃弾に倒れた。ガロアは代数方程式の解を求める事であったが、2次方程式の解、3次方程式の解、4次方程式の解は19世紀以前に得られていた。ガロアは5次方程式の解を求める難問に挑戦した。ガロアの論文2通はフランス学士院のオーギュスト・コーシ―に送られガロアの才能が認められる機会になるはずであったが、論文の手直し中に行方不明になり、再度ジョゼフ・フーリエに提出したが受理さえされなかった。そして1832年5月30日銃弾に倒れた。ガロアの計算の中心にあったのは、群論と呼ばれる概念である。群の重要な性質に「群に含まれる二つの要素を演算によって結び付けた結果は、やはりその群の要素となる」という者がある。例えば整数は加法については群をなすが、除法については群をなさない。しかし「有理数は除法について閉じている」ということができる。ガロアが5次方程式に関する結果はその少数の解を要素とする群を構成したからである。谷山・志村予想を証明するためワイルズは楕円方程式の一つ一つがモジュラー形式とペアになることを示すためには、すべてのE系列とM系列の一つの要素が一致することを確かめ、それから次の要素の確認を行う方法を取った。無限に存在するE系列とM系列の順序として帰納法によって次々と関連づけが保証されていった。ガロア群を利用するというワイルズの戦略は谷山・志村予想を証明するための第1歩であったが、発表はせずコツコツと作業を続けた。1988年3月東京都立大学の宮岡洋一が微分幾何学からアプローチし、フェルマーの最終定理を証明したという報が駆け巡った。1983年数論的代数幾何学者のプリンストン高等研究所のフィールズ賞受賞者ゲルト・ファルティングスはさまざまなベキ数nに対するx^n+y^n=1の図形を調べて、複数個の穴が開いていることから、フェルマー方程式は有限個の整数解しか持たないという。ファルティングスは宮岡の論理の破たんを見抜いた。こうしてフェルマーの最終定理の証明はまた闇の中に消えた。1991年ワイルズは孤独な研究のなかで、楕円方程式の岩澤理論の修正によって打開を試みたが失敗した。フェルマーの最終定理の証明の研究ももう5年になった。

1991年以来、ワイルズはボストンで開かれた楕円方程式の専門家会議に出かけ、コーツとの会話でコリヴァキアン=フラッハ法という楕円方程式の分析法に注目して、その拡張に没頭する日々を送った。ある特定の楕円方程式ではコリヴァキアン=フラッハ法は帰納法ができたが、どの方程式にも当てはまるわけではなかった。楕円方程式はいくつかの族に分類され、一つ一つの族にたいする適応を試みてゆき、楕円方程式の族がモジュラーであることが証明されていった。しかしコリヴァキアン=フラッハ法の厳密性を検証するため、1993年ワイルズはその幾何学的性質について専門家に意見を聞くことにした。その相談相手はプリンストン大学のニック・カッツ教授であった。検討すべきワイルズの内容が膨大であったため、ニック・カッツ教授は大学院生を対象とした講義形式を採用した。講義名は「楕円曲線の計算」とした。こうしてニック・カッツ教授はコリヴァキアン=フラッハ法の適用には誤りはないことを保証した。1993年5月バリー・メーザーの論文を読んでいて19世紀の構成法が楕円方程式の族に適用できそうだと分かった。これがフェルマーの最終定理を説くことの最終的決め手になったという。こうして7年の秘密研究の結果、谷山・志村予想の証明が完成した。1993年6月末ケンブリッジ大学ニュートン研究所において専門会議を開催し、そこで発表する手はずが整った。フェルマーの最終定理のことは伏せて「L関数と数論」というワークショップであった。この会議には主催者側にコーツ教授、招待者にはバリー・メーザー、ケン・リベット、コリヴァキアンらが続々集まってきた。彼の証明を支える理論を生み出した人々は全員そろっていた。ワイルズが何を話すか、噂は噂を読んで聴講者が集り会場はあふれて廊下で立ち聞きの状態であったという。ワイルズの講演は「モジュラー形式、楕円曲線、ガロア表現」という題目であった。公演は3回にわたって行われたが、第1回の講演後から研究者間のメールが飛び始め、興奮が沸き起こった。第3回の講演が終わった翌日ニューヨークタイムズ、ガーデアン、ル・モンドそしてテレビが一斉に「フェルマーの最終定理解決される」を報じた。メディアのお祭り騒ぎに一報で証明のチェックという重要な作業が進められた。ニュートン研究所でのワイルズの講演は証明の概略を示したにすぎず、専門家によって正式に認められたわけではない。ワイルズは論文を「インウエンチオネス・マスマチカエ」に提出し、編集人のバリー・メーザーはさっそく6人のレフリーの選出に取り掛かった。200頁の論文をを6つに分け、各レフリーが1章づつ担当した。小さな問題は著者とのメールでやりとりし解決していったが、コリヴァキアン=フラッハ法に関する問題指摘は簡単にはゆかなかった。ワイルズは9月になって問題が根本的な欠点であることに気が付いた。もっと証明を強化する必要があるというものであった。オイラー系コリヴァキアン=フラッハ法の共同研究者であったニック・カッツ教授も大いに悩み反省をした。メディアや数学研究者の間には「ワイルズの研究に欠陥か」という噂が出回っていた。この3章のレフリーを担当したのはリチャード・テイラーである。ワイルズは1993年12月4日メールでこの欠陥を認めた。「谷山・志村予想のセルマー群の計算に還元する基本的な部分は正しいのですが、モジュラー形式に付随する対称平方表現に関する半安定の場合でセルマー群の元の正確な上限を計算する最終段階が完全ではありません。2月に始まるプリンストン大学での講義でこの研究に関する完全な説明をするつもりです」と。ここからワイルズの証明は窮地に立たされた。1994年の冬はワイルズにとって絶望の淵にいた。論文を公開すると、アイデアを出した人に名誉を持ってゆかれるので、ワイルズは苦慮の末、この問題の専門家ケンブリッジ大学の講師リチャード・テイラーをプリンストンに招き共同研究することにした。ニュートン研究所での講演から14か月経過して、1994年9月19日、コリヴァキアン=フラッハ法に岩澤理論のアプローチが使えることに気が付いた。1994年10月25日二つの論文が発表された。
① 「モジュラー楕円関数とフェルマーの最終定理」 アンドリュ・ワイズ著  こちらの論文が主論文でフエルマーの最終定理の証明である
② 「ある種のヘッケ環の環論的性質」 リチャード・テイラー、アンドリュ・ワイズ著 この論文はオイラー系の構成に関するギャップ補完である。ヘッケ環が局所完全交差であるという仮定の下で完成された。オイラー系を削除したことで大分簡素になった。

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参考

感動!「350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論]) 

数学 「350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論]) 

京都 VSOPも感動! (谷山・志村予想 がカギ)350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論]) 

京都 VSOPも感動!「350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年2月13日( 数学[整数論]) 
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京大受験必読、数学者・志村五郎の遺した言葉 (ちくま学芸文庫 「数学をいかに使うか」 「数学の好きな人のために」 「数学で何が重要か」 「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊)

京大受験必読、 数学者・志村五郎の遺した言葉 (ちくま学芸文庫 「数学をいかに使うか」(2010) 「数学の好きな人のために」(2012) 「数学で何が重要か」(2013) そして「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊)

研究計画 あの頃考えていたこと(学問編) 数学 整数論(志村理論)を知る 「数を読む」
志村五郎 先生の 書籍 と 物語ss

志村五郎さんが亡くなられた。 
(志村先生は、何度も京都で「志村スクール」を開催し、講義をされました。
だから、京都にゆかりのある方に、特に、読んで欲しい。)

「すべての楕円曲線はモジュラーである」  ( 「谷山=志村予想」は、「志村予想」だった! 先生の「誠実さ、優しさ」)数学の統一理論にも貢献! 
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参考(やや専門的な内容)

http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/689.html

https://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~abenori/conf/20150817.html

http://www.sci.kumamoto-u.ac.jp/~narita/ss2011_proceedings.pdf

http://ntw.sci.u-toyama.ac.jp/ss2017/

http://www.ist.aichi-pu.ac.jp/~tasaka/ss2018/index.html

https://core.ac.uk/download/pdf/42026066.pdf

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ワイルズによるフェルマー予想の解決にも岩澤理論は大きな役割を果たした。 また、これ以外にも日本人数学者の結果が大きく寄与している。例えば、 肥田(晴三)の理論が有効に用いられたし、解決への道筋は谷山・志村予想を 経由するものであった。

https://www.math.kyoto-u.ac.jp/~tetsushi/nt_seminar.html
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 といっても多くの読者にはピンと来るまい。一部には「谷山・志村予想」とか「フェルマーの大定理」といったキーワードと結びつけて、同氏の訃報を認識する人もあるだろう。

 また筆者などよりはるかに、彼の業績やその先の展開に通じた専門家もたくさんおられるはずだ。そのような内容に踏み込むつもりはない。

 ここでは、志村さんという一数学者の等身大の声として、私が認識した範囲に基づいて、とりわけ中学高校から大学初年級までの読者を念頭に、いくつか記してみたいと思う。

 また子供を京都大学(東京大学)などに進学させたいと思われる親御さんには、よく読んでもらいたいと思いながら記した。

 そのようなターゲットであるから、普段の文体とは異なる、本稿のような常体を取っている。これには、志村さん自身の文体が、そのような飾りのないものであることが一因している。

 なお念のため、筆者は生前の志村五郎氏に一面識もない。あくまで、その遺された仕事、しかもその中で、数学専門家向けではない、初学者や周辺専門家向けの著作に、大きく心を動かされた経験のある一読者として、記すものである。

 だが、それゆえに、広く一般向けのコラムとしても、多くの人、例えばファイナンスやマネジメントの数理やシステムに関わる読者にも、大いにお勧めできる内容を記せるように思うのである。

■ 志村五郎「最期の4冊」未来への遺言

 志村五郎さん自身に触れる前に、読書案内を記しておこう。ちくま学芸文庫として公刊されている「数学をいかに使うか」(2010) 「数学の好きな人のために」(2012) 「数学で何が重要か」(2013) そして「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊である。

 あらかじめお断りしておくが、筆者もこれらのすべてを完全に読了しているわけではない。

 数学の本を読むとは、紙と鉛筆を手に取り、一つひとつの命題を再現しつつ追い、可能であれば別解を導いたりしながら悪戦苦闘することを指すと思う。

 その意味では、最晩年のこの4冊だけを取り出しても、私は志村作品のよき読者ではないだろう。

 しかし、これらの書籍は十分平易に記されている。

世は新時代だそうであるから、私は新世代に向けてこの原稿を記したい。とりわけ中学、高校生の読者に、受験だ何だというどうでもよい枠組みと無関係に、志村さんの遺言のような4冊に、若く感じ方の柔らかい時期に触れておくことを強く勧めたい。

 (幸か不幸か私は「大学入試頻出筆者」だそうで、このコラムを読んでいるティーンエイジャーが一定数あることを私は認識している)

 志村さんがこれらの本を公刊されたのは、彼が80歳から84歳にかけてのことで、この連休、5月3日に89歳で亡くなられたとのことだから、最晩年といって大きくはずれないだろう。

 長年プリンストン大学で研究され、達意の英文コラムなども米国の新聞に投稿しておられたから、本当に最後の原稿ではないだろう。

 でも、齢80を迎えるにあたって、このような「初学者」向けの丁寧な書籍を、しかも廉価な文庫という形で、さらに「書き下ろし」で出稿されたのには、背景があり、志村氏としての得心があったに違いない。

 また、これら「未来への遺言」的な書籍をちくま学芸文庫への「書き下ろし」として委嘱した編集者、それをサポートした版元の仕事を多としたい。

 この出版不況のおり、さらにどうでもよいエピゴーネンの跋扈する中、よくぞこのような書物をこの世に誕生させてくれたものだと、正味の賛嘆をお送りしたい。

 生前の志村氏は「癇癪」で知られたようで、その辛らつを極める舌鋒筆鋒には様々な逸話や批判もあるようだが、すでに亡くなった人であり、以下では一切、そうしたことには触れない。

 もとより故人を存じ上げないので、もっぱらその遺された仕事から、続く世代の若い精神に有効と思われるポイントを2、3選び、それについてのみ、記そうと思う。

■ 入試で問うべきものは何か? 

 まず前掲書のタイトル「数学をいかに使うか」に注意しよう。4冊の書物はすべて、この第1冊の基本方針で一貫している。つまり「使える」数学ということである。

 このように記すと、多くの読者が勘違いするだろう。例えば「大学入試で使える数学」であるとか、物理から金融まで、様々な「応用で使える数学」など、など。

 志村さんの、そういう「使える」に対するピシャリとした全否定はハッキリしている。第3冊「数学で何が重要か」の4章は「入学試験と数学オリンピック」と題され、<問題解き>の悪弊を明瞭に指摘しておられる。引用してみよう。

「そこで私が気がついたのは悪い試験問題が非常に多いということであった」

 「私は予備校で3年ばかり教えていたことがある。そこの予備校のやり方に従うことになって、各大学の数学の入試問題を随分調べた。すると技巧的で何かうまいやり方を思いつかないとできない問題がかなりあった」

 「有名大学でなくそれほど競争が厳しいとも思われない大学が特にそうであった。入試問題などというものは基本的知識の有無と理解の程度を調べればよいのである」

 「そういう問題を適当なレベルで作るのは案外難しいのかもしれない。まさか出題者が技巧的な問題を作って得意になっているわけではないとも思うが」(「数学で何が重要か」p.28-29)

 ここから見えるのは、志村さんの極めて現実的な数学教師、あるいはアカデミシャンとしての堅実な定見である。

 「入試に役立つ数学」など論外で、その先の人生に役立つ数学の基礎をしっかり見て取れれば、入試などというものは十分だという、実に真っ当な、建設的な観点が見てとれる。続きを引用しよう。

 「当時私が提案して東大の入試問題になったものをひとつ書いておく(中略)」

 「『一辺の長さ1の正4面体ABCDの辺ABの中点と辺CDの中点との距離を計算せよ』。普通に考えれば10分とはかからないだろう」

 「多分1960年頃である。そんな易しくてよいのかと思う人もいるかもしれない。しかし易しすぎて失敗だったという記憶はない。今でもこの程度で通用するだろう。ほかの問題もあるのだから。」(同書p.29)

 まさに定見と思う。入学試験というものは、実は、1点でも点をやりたいと思って作られるものである。その事実を社会はもっと普通に理解し、受け入れるべきと常々思っている。

 なぜか? 

 逆を考えてみたらよい。すなわち、1点の点もやりたくない、とすれば、難問奇問、珍問愚問の類を並べ、受験生は軒並み0点の平野に死屍累々となることだろう。


それで選抜試験として意味があるか? 

 ない。少しでもきちんと建設的に思考し、解答に反映させることができれば、その分を評価する・・・。

 これは入試などという人工的なビニールハウスだけの仕儀ではなく、その後の長い人生で、社会人としてあらゆる局面で通用する、不易流行と言っていいだろう。

 志村さんは、そういう意味で「数学をいかに使うか」と言っておられる。

 そして、その本来の攻略目標として、数学というもの、それ自身の本質的な問いに、スケールの大きな、またこの人ならではの、オリジナルな問題意識をもって取り組み、明らかに人類の数学史に貢献する成果を残して、89歳で逝去された。

■ 数学オリンピックへの警鐘

 志村さんの、極めて真っ当で健全な問題意識は、受験に特化したおかしな出題傾向のみならず「数学オリンピック」という制度にも警鐘を鳴らしている。彼自身の表現を引いてみよう。

 「数学オリンピックについて言えば、それで良い成績を得た人が実質的に得るものはほとんどない。単なる競争であって、ちょっと小・中・高校生の将棋や囲碁の大会と似ているところがある」

 「・・・ところが、数学オリンピックの問題はプロの数学者が考えていることとは全然関係ない。もっとレベルの高い問題をやっているわけではない。数学オリンピックのはすでに解答のある問題でもある」

 「私はテレビでそういう将棋大会の優勝者に向かってプロの棋士が『将来将棋を専門にやってゆくつもりですか』とたずねているのをみたことがある」

 「実際優勝者がプロになった例は少なくないと思う。同様に数学オリンピックの金メダリストに『将来数学者になるつもりですか』という質問がなされているかどうか私は知らない。また金メダリストがその後どうなったかも知らない」(同書p.31)

 志村さんの「使える」がはっきり分かる指摘と思う。

 つまり、数学オリンピックという特殊な競争ゲームに勝っても、またそれをマスコミなどがちやほやしたとしても、それはおよそ彼あるいは彼女のその後の生涯に直接「使える」ものではない、という事実を志村さんは淡々と指摘される。

「試験場に行けばそこに問題が待っている。将棋大会に行けばそこに相手がいる。すべて受動的である」

 「ところが数学の研究者になるというのは自発的なものであって、しかもその自発性を持続させなければならない」

 「金メダリストになることはできてもそのような自発性がなければどうにもならない。そういう意味で数学オリンピックは真の意味の数学者の世界とは無縁である」

 同様のことは、アスリートのオリンピックにも言えるし、筆者の領分である音楽をはじめとする芸術にも完全に当てはまる。

 競争に勝つというのは、すでに解答が準備された温室のトラックレースで要領よく立ち回ることに過ぎない。新しいものを何か作り出す、本当の意味で歴史を開拓するのに「使える」ものでは全くない。

 では、志村さん自身はどのようなティーンの時期を過ごしたのだろうか? 

 志村五郎 1930年2月23日静岡県生まれ、2019年5月3日 大阪府没。プリンストン大学名誉教授。

 盟友で東京大学助教授に就任したばかりで自ら命を絶った谷山豊(1927-58)の問題を継承しつつ、独自の問題意識から発展させた「谷山・志村予想」は、40年後「フェルマーの最終定理」の証明に決定的に貢献・・・といった内容は、プロがお書きになる原稿があると思うので、ここでは触れない。

 前記4冊の第1冊「数学をいかに使うか」の134ページに興味深い具体的な出来事が記されている。

 「ここでひとつ、日本語の面白い本を注意しておこう」

 「正田健次郎 代数学提要 共立出版」

 「初版は1944年で戦中の困難な時代に何とか出版できたのであって、私は1945年戦後すぐに出た再版をその年の12月に4円20銭で買っている」

 「私は旧制高校1年のとき、これで代数学の初歩を学び、少ししてから van der Waerden の( Moderne Algebra Springer 1930)を読んだ」(「数学をいかに使うか」p.134)

 とある。細かな資料がないが1929年度生まれの志村さんが旧制中学を4年で修了して高校に進んだとすれば17歳になる1946年年度、つまり終戦の年15歳だった志村少年は中学生として、かなり高価な正田健次郎「代数学提要」を暮れに購入し、翌年これを読んだものと察せられる(志村「記憶の切絵図」筑摩書房の記載に準拠)。



言うまでもなく、学校の授業も受験も、またなんとかオリンピックも関係ない。自分で読んだ。

 「この正田の書は1ページ21行、121頁の小冊子であるが、ともかくまとまっている。演習問題もある。今日このような簡便で小型な書物もあってよいと思う」(同上)

 志村さんは、自主的にマスターし、どうやら演習も自力で解いたであろう正田の書籍にも長短を指摘し、今日、教える必要のない部分ははしょったらいい、と「使える数学」を強調している。

 「旧制高校の代数学の教科書には三次方程式や四次方程式の解法が説明されていて、演習問題として次の三次または四次方程式を解けというのが少なくとも十五題以上あったと思う」

 「私はひとつも解いた覚えはない、もっとも何次の方程式でも、近似解を求めることはおそらく重要だから、それを簡単に教えるのはよいが、代数的解法にこだわるのは無意味である」

 「何でもむかしから教えてきたことを無批判に教えるのは愚劣であるが、鶴亀算や旅人算を教えたように『それを教えることになっている』と中々やめられなかったし、今でもやめられないのである」(「数学をいかに使うか」p.136)

 1952年、東京大学理学部数学科を卒業し、直ちに東京大学教養学部で教壇に立ち始めた若き志村青年は、旧態依然たる「使えない」解析幾何などを自主的に廃し、今日では標準的といえる線形代数の講義などに勝手にシフトさせ始めるとともに、20代前半からクロード・シュヴァレー、アンドレ・ヴェイユといった、関連分野で世界の先端を開拓していた当時の第一人者たちと問題意識を共有。

 25歳だった1955年9月、そのような環境下で同級の友人谷山豊が発表した「問題」を、谷山氏の不幸な早世後、厳密に定式化して「志村予想」(という表現を、あえてここでは用いたいと思う)に結実。

 30余年後、より本質的なこの「志村予想」が解決されることで「フェルマーの最終定理」も結果的に解けてしまった、というのが、実際の流れに近いように思う。


■ 初めももなければ終わりもない 数学の大河と向き合う

 さて、上の志村さんの引用後半に見えるように、この人の舌鋒筆鋒は鋭く、何事も微温を持ってよしとしやすい日本のアカデミアには全く不向き、国際社会でイニシアティブを取る第一人者だった。

 1959年、パリ~プリンストン大学出張から帰国、東京大学教養学部助教授として教壇に立つものの、そのレベルの低さに閉口、心機一転を期して61年大阪大学教授として転出する。

 しかし、俸給は欧米での非常勤の半額以下、子供も生まれ、思い切ってヴェイユに身の上相談。1962年、プリンストン大学客員教授として頭脳流出。

 1999年まで37年間、豊かな数学の地力を駆「使」して、つまり、使えるだけ使い倒して、1999年69歳で定年するまで、数学の女王などとも呼ばれる王道中の王道「数論」の中心課題に、莫大な業績を挙げ続けることができた。

 今日の日本の大学で急増しているような雑務からは自由な人生であったかと思われるが、細かな査読などにも心を砕かれ、本質的には懇切で優しく細やかな精神の持ち主であったことが、書籍の隅々から察せられる。

 ちなみに筆者は志村さんが米国に頭脳流出した年に生まれ、ティーンだった1983年の「モーデル予想」の解決、1984年にゲルハルト・フライの「谷山・志村予想が正しいならフェルマー予想も正しい」という予想(フライ・セール予想)が発表され、日本評論社「数学セミナー」誌などに関連の記事が並んだのをよく記憶している。

 筆者にはそれらを深く理解する能力は全くなかったが、のちに志村多様体のトップランナーとなる藤原一宏のような友人が同級生にあり、仕事をまぶしく見た印象のみ強く残る。

 志村さんの訃報として「フェルマーの最終定理」証明に貢献、を強調するくらい、多分、彼の精神に反することはないように思う。

 極論すれば「フェルマーの最終定理」という骨董品的な特例は「使えない数学」袋小路の一例に過ぎないと、何事にも冷静かつ過不足ない視線を注がれる志村さんが、相対的な意味や位置づけをもって、骨董品的な「フェルマーの定理」を軽く見られても、全く不思議ではない。

 「フェルマーの最終定理」は1995年、アンドリュー・ワイルズが「志村予想」を、やはり日本の数学者である岩澤健吉さんの理論を巧妙に用いて解決することで証明された。 

 しかし、それは数論の巨大な問題設定である「志村予想」の定理を証明する際の、ごく特殊な一例、系の一つとして「フェルマー」も示されたのであって、数学王道の本質としては「ζ関数の統一」など、個別の問題解きを超えた、始めもなければ終わりもない、数学という大河に向き合う人智の本質的な姿勢が決定的であると言うべきだろう。

 志村さんや岩澤さんは、正田健次郎を筆頭に当時の日本にも存在した本質的でコンパクトな議論から、そのような数学の本義を早い時期に学ばれた。

 私は正田教授にタッチの差で直接ご指導いただくチャンスを逸した経緯がある。親しい先輩たちから漏れうかがう正田さんの指導方針は、最初から本物に触れさせるというものであった。

 実は正田先生は最晩年、中学高校生の指導にあたっておられた。

 あえて実名を記すなら、かつて中学3年生だった微分幾何の宇澤達さん(名古屋大学教授)は、自由研究で考えた問題について正田先生に質問に行き、比較的読みやすい最先端の原著を手渡されるとともに、紹介された小平邦彦(1954年フィールズ賞)教授を訪ね、指導を受けることができた。

 しかし、当時の彼はその自由研究をまとめることができなかった。

 そんな宇澤さんが数年後、今度は自身が中学の非常勤講師として同様の指導をした中に、岩田覚君という少年がいた。岩田君は中三時代、やはり質問に行って宇澤さんから手渡された微分幾何の原著を高校1年次、自主的に学んだ。

 そこで頭を使い、モース理論と呼ばれる分野の系を自力で証明することができた。その自由研究で宇澤少年がまとめることのできなかった論文をまとめて賞も得た。

 岩田氏は現在東京大学工学部計数工学科の教授として後進の指導に当たっており、詳細は分からないが、同様の指導をしているのではないかと想像する。

 私は10学年ほど離れた両者のちょうど中間の学年に位置しており、独立してご両人からこの経緯を聞いていた。

 数学オリンピックのような出来合いの競争ではなく、数学という大河の本筋から、自分で見つけた問題について、成果を出すことができた幸運なケースの一つとして紹介したものである。

 正田健次郎氏の指導方針とその伝搬の成功例として思い当たったものである。事前にお断りせずご両人の御名前を挙げたが、弔辞であり、ご宥恕願いたい。

 1945年、空襲で焼け野原となった日本で、中学3年の志村少年が何を思って正田さんの本を手にしたかは分からない。高価な本を、少年は思い切って購入したことだろう。

 80歳を過ぎても価格を鮮明に記憶する志村さんの意識からそれと知れる。

 そして、紛れもなく確かなことは、その7年後、旧制高校と大学を卒業した志村氏が、1952年から東京大学の入試出題側に回るとともに、ヴェイユやシュヴァレーと丁々発止の創造的議論で白熱する第一人者に育った事実である。

 こうした経緯は決して偶然によるものではない。

資質ある少年を本物の環境に放し飼いにし、おかしな「餌付け」で「潰し」さえしなければ、勝手にすくすくと伸びることが分かっている。

 今回は記さないが、少年時代の岩澤健吉さんについても同様の経緯があったと仄聞している。

 数学史の王道にオリジナルな貢献を果たした、これら真の才能の育成を考えるうえで、大学入試の悪問や数学オリンピックなどによって醸成されかねない「問題解き」のメンタリティは、有害であって無益、木を見て森を見ず、大道に目を塞いで些事にこだわる「小人」のわざであると、志村さんは警鐘を鳴らされる。

 中国古典にも精通した志村さんのこうした書きぶりは、今日のSNS的悪平等の観点からは「上から目線」と誤解され、いわれのない誹謗中傷も受けた面があるように思う。

 しかし、大河を進む志村さんは泰然自若、悠々と「最期の4冊」を有り難いことに日本語で、日本の若い世代に遺して、先週瞼を閉じられた。大家を喪った。

 「今日このような勘便で小型の書物があってよいと思う」だけでなく、志村さんは有言実行で、 4冊も「簡便で小型」ながら、英語でオリジナルの数学論文が書き下ろせるようになるまでのエッセンスがすべて詰まった、若い世代の日本語読者に至宝のような、親しげな先輩としての創造メモ小冊子4点遺して、幽明境を異にされた。

 一大学教員として、こうした珠玉の書物にこそ触れてほしいと、私は昨日も教養学部の授業で学生諸君に勧めたが、本当にこれらを手にすべきは中学生、高校生であり、あるいは年齢を問わない「精神の数学少年たち」すべてであると思う。

 岩澤さんや志村さんのような「大志」をティーンの時代に身のうちに胚胎することは、どれだけ強調してもしすぎることがない。

 受験だ、オリンピックだといった、すでに解かれた問題の縮小再解決ではない、本質と向き合う経験をこそ、心も頭も柔らかいティーンの諸君に持ってもらいたい。

 志村さんの訃報に触れて強く感じた次第である。 


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参考

超難問「フェルマーの最終定理」証明の最重要人物である日本の数学者が死去
志村五郎 スケッチ700ss


Point
■360年間解かれなかった数学の難問「フェルマーの最終定理」は、まったく無関係に思われたある命題を証明することで解決されている
■その重要命題が日本人数学者の提唱した「谷山-志村予想」だ
■そんな世紀の難問の解決に寄与した偉大な日本人数学者、志村五郎氏が5月3日89歳で死去した



平成の終わりと共に、一つの時代を見届けるかのように偉大な日本人数学者がこの世を去った。

志村五郎氏の名を知らなくても、数学の難問「フェルマーの最終定理」を記憶している人は多いだろう。

「フェルマーの最終定理」は1995年にイギリス生まれの数学者アンドリュー・ワイルズによって証明されたが、実は「フェルマーの最終定理」は志村氏の提唱した「谷山-志村予想」を証明することで解決している。

志村五郎氏の死去に伴い、氏が解決に大きな貢献をした「フェルマーの最終定理」という難問について、できるだけ分かりやすく振り返ってみよう。

志村五郎氏の訃報については、5月3日にプリンストン大学より発表されている。


「フェルマーの最終定理」をめちゃくちゃ簡単に説明する
谷山志村予想「フェルマーの最終定理」ss



「私はこの命題について、真に驚くべき証明を見出したが、それを記すにはここはあまりに余白が足りない」

360年前、フランスの数学者ピエール・ド・フェルマーはたったこれだけのメモを問題の脇に書き残してこの世を去ってしまった。

このツイッターにも投稿されていそうなフェルマーのメモは大変話題になり、以後この命題は「フェルマーの最終定理」と呼ばれることになる。

「フェルマーの最終定理」は、一見すると義務教育で教わる「ピタゴラスの定理」の拡張版だ。なんだか簡単に解けそうな問題にも見える。

この命題の「n=2」の場合が、直角三角形の辺の長さを求めるいわゆる「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」である。



しかし「n」が2なら無限に解が存在するというのに、この「n」が3以上の数字になると「x,y,z」を満たす解は一切存在しなくなってしまう。これがいわゆる「フェルマーの最終定理」の命題だ。

この問題を最終的に解いたアンドリュー・ワイルズは10歳の頃、図書館でこの問題を見つけて「俺なら解けるんじゃね?」と思ったようだ。それはそれでとんでもないお子様だが、しかしこれが大きな罠だった。

「n」が3以上の場合というのは、つまり無限に存在する「n」について、それぞれ解が無いと証明しなければならないわけで、これは非常に困難な証明なのだ。

以後30年以上、ワイルズはこの問題の呪縛に捕らわれることになる。

世紀の難問に光を与えた日本人

「すべての楕円曲線はモジュラーである」

またまた一般人には意味不明なこの一文が、「谷山-志村予想」または「志村-谷山-ヴェイユ予想」の主張だ。

ちなみに数学における「予想」とは、真だと考えられるが、証明することはできていない命題のことだ。「予想」が証明されるとそれは「定理」になる。

だから「フェルマーの最終定理」も厳密には「予想」になるわけだが、そこは証明できたと断言したフェルマーに敬意を払っておこう。

楕円曲線とは数論(数の性質について論じる数学の分野)における理論の一つで、解くと解が数列のような形で複数得られる。

一方モジュラーというのは、簡単に言うと四次元空間の無限の対称性について論じたものだ。

モジュラーの世界のイメージss

そんな説明じゃさっぱり意味がわからないよ! という人は、上のエッシャーの絵画「サークルリミットⅣ」を見てほしい。



この絵はモジュラーの理論を使って二次平面上に複雑な対称性を持つ模様を描いているので、この絵を眺めて「なんかこういう不思議なパターンを定式化するお話なんだ」と思ってもらえればいいと思う。

この楕円曲線とモジュラーはそれぞれの解がよく似た数列のパターンで得られるのだが、「谷山-志村予想」はこのよく似た解が似ているのではなくて、同じなのだと主張したのだ。

数学のまったく異なる領域の問題が、実は同一の概念を論じているというこの主張は、とても大胆で驚くべきものだった。

最初にこのアイデアを閃いたのは、呼称の中に名を連ねる谷山豊だった。しかし谷山はこのアイデアを思いついた数年後に自殺してしまう。盟友の死を嘆きつつ、そのアイデアを定式化したのが志村五郎だった。

「谷山-志村予想」は一般的にはあまり知られる機会のない理論だが、その後の数々の数学者たちのよる研究で、「フェルマーの最終定理」と結び付けられることになる。

フェルマーの最終定理は楕円曲線に変換可能であり、その解に対応したモジュラーは存在しない事が示されたのだ。つまり「谷山-志村予想」が正しければ「フェルマーの最終定理」はその命題の通りに解を持たないことになる。

二人の日本の数学者によって生み出された数学理論は、このとき長年の数学の難問の解決と直接結びついたのだ。

異なる数学の世界をつなげ、360年来の難問を解き明かした数学者たち


アンドリュー・ワイルズ氏 
無責任なフェルマーの証明宣言から360年。この難問は大勢の数学者たちの努力と挫折の末、1995年にアンドリュー・ワイルズによって「谷山-志村予想」を証明するという形で最終的解決を迎えた。

そこには数学の歴史を彩る様々な深いドラマがあった。

今、そんな数学の偉大な歴史に名を刻んだ一人の日本の数学者の人生が幕を下ろした。

50年以上前、自殺してしまった同僚谷山豊氏の偉大な閃きを定式化し、「フェルマーの最終定理」という数学の難問解決に寄与した志村五郎。彼は天国で谷山氏に良い報告をすることができただろう。

「フェルマーの最終定理」を巡る数学者たちのドラマに興味を持った人は、ぜひこの機会に『サイモン・シン著 フェルマーの最終定理 (新潮文庫)』を読んでみてはいかがだろうか。

フェルマーの最終定理 (新潮文庫) - サイモン シン 文庫 ¥853

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参考
ラングランス・プログラム= 志村・プログラム

数学の大統一に挑む - エドワード・フレンケル 単行本 ¥2,376

内容紹介
xのn乗 + yのn乗 = zのn乗

上の方程式でnが3以上の自然数の場合、これを満たす解はない。
私はこれについての真に驚くべき証明を知っているが、ここには余白が少なすぎて記せない。

17世紀の学者フェルマーが書き残したこの一見簡単そうな「フェルマーの予想」を証明するために360年にわたって様々な数学者が苦悩した。

360年後にイギリスのワイルズがこれを証明するが、その証明の方法は、谷村・志村予想というまったく別の数学の予想を証明すれば、フェルマーの最終定理を証明することになるというものだった。

私たちのなじみの深いいわゆる方程式や幾何学とはまったく別の数学が数学の世界にはあり、それは、「ブレード群」「調和解析」「ガロア群」「リーマン面」「量子物理学」などそれぞれ別の体系を樹立している。しかし、「モジュラー」という奇妙な数学の一予想を証明することが、「フェルマーの予想」を証明することになるように、異なる数学の間の架け橋を見つけようとする一群の数学者がいた。

それがフランスの数学者によって始められたラングランス・プログラムである。

この本は、80年代から今日まで、このラングランス・プログラムをひっぱってきたロシア生まれの数学者が、その美しい数学の架け橋を、とびきり魅力的な語り口で自分の人生の物語と重ね合わせながら、書いたノンフィクションである。
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2015年11月
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ラングランズ・プログラム(英: Langlands program)は、代数的整数論におけるガロア群の理論を、局所体およびそのアデール上で定義された代数群の表現論および保型形式論に結び付ける非常に広汎かつ有力な予想網である。同プログラムは Langlands (1967, 1970) により提唱された。

ラングランズ・プログラム(英: Langlands program)は、日本の「志村五郎氏」による進展が大きい。

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////// 親子孫で楽しむ算数・数学「数を読む」 志村五郎先生「誕生日」の「素数の世界」 //////

大学院入試の思い出  志村五郎 先生 (追悼) ( 「谷山=志村予想」は、「志村予想」だった! 先生の「誠実さ、優しさ」)数学の統一理論にも貢献!

大学院入試の思い出  志村五郎 先生 (追悼)  ( 「谷山=志村予想」は、「志村予想」だった! 先生の「誠実さ、優しさ」)数学の統一理論にも貢献!


以下の「数列の問題」が出た記憶がある。
(正しくは、f(X)=√2 であったと記憶している。)
研究計画 あの頃考えていたこと(学問編) 数学 整数論(志村理論)を知る 「数を読む」
志村五郎 先生の 書籍 と 物語ss

「すべての楕円曲線はモジュラーである」  ( 「谷山=志村予想」は、「志村予想」だった! 先生の「誠実さ、優しさ」)数学の統一理論にも貢献!

(京都の夏、幸運にも、「志村五郎先生の集中講義」を聞く機会があった。)
ある先生に「志村五郎先生は、ガウスの生まれかわりだ!」と聞いたことがある。

その根拠の一つは、
「【今日の数学者】2月23日はガウスの命日であり、志村-谷山予想の志村五郎先生のお誕生日であり、フィールズ・メダリストの森重文先生のお誕生日です。」
である。

以下「記事」を読み思い出した。

志村 五郎:数学をいかに教えるか

作成日:
最終更新日:

概要

前著三冊『数学をいかに使うか』、『数学の好きな人のために』、『数学で何が重要か』の続編。

感想

人の詮索

評者である私にとって、人の詮索は楽しみである。だからこの本を読んだ楽しみのほとんどは、著者が例を出している人の詮索である。 ただ、その詮索のための情報のかなりのところは、 本著者の志村が刊行した前著三冊にあるのではないかと思われる。 評者はこれらを持っていないので、残念である。

例の教授

さて、著者はどんな人を描写しているか。まず、p.030 から

1960年頃東大の三年生の代数の講義の第二学期を教えたことがある. 一学期は例の「実数論を一学期教えた」教授がやってその人が外国に行くことになったので,そのあとを私が引き受けたわけである.

ここで「例の」ということばが出てきているが、その先行事実がわからない。たぶん前著三冊にあるのだろう。

著者の死亡の報を知る

日本が大型連休でにぎわっているころ、志村五郎が亡くなった。2019/05/03 没。私がこのことを知ったのは志村についての Wikipedia を見た 2019/05/11 である。 私が購読している東京新聞の記事にあったかどうか、あとで見てみよう。

さて、著者への追悼を込めてこの本をもう少し評することを考えた。部屋を整理してやっと見つかったのでいくつか気になったところを書いてみよう。 主なところは pp.034-044 2. ゆとり教育から勲章まで、と題された章である。

p.034 の冒頭は次の通りだ。

数学は教え方をうまくすれば誰にでもわかるように教えることができると言う人がいる. 数学というより算数だけのことで,中学二年までのことかも知れない. 私はそれ程楽観的ではない. 算数に限らず,世の中には物事を学ぶ気のない人もいれば,どう教えてもできない人がいるので, それは仕方がない現象であると私は思っている. あまり偽善的なことは言わないほうがよい.

これを読んでなんと著者は正直な人だろう、と思った。そして、偽善的、ということばの使い方について納得したのだった。

少し進んで、天皇や天皇制に話が及ぶ。p.039 には次のようにある。

(前略)まず今日の人々が思っている天皇制とは明治維新以来のものであって、千年もそうであったのではない. 古い話はやめて,政治制度としての天皇制は 1868 年からあとの十年ばかりの間に作り出した「変な物」であって,それを有難がる必要はまったくない.

自分で考えたことを、自分の信念で、そのまま語っている。たいしたものだ。

一方で、著者は高名な社会学者である丸山真男を批判していた。ただし、その文献がわからないので、詳細は追って記す(この項、2019-05-12 記す)。

数列の極限

p.38 では、「数学で何が重要か」の p.23 にある次の問題を再度載せている。

たとえば、[重,p.23] にある limnan,limnan, ただし an+1=aan0<a=a1Ran+1=aan0<a=a1 を求める問題など易しくはないが十分楽しめる問題であると思うのだが.

ちょっと考えてみた。難しい。もちろん、a>1a>1 の場合は正の無限大に発散する。a=1a=1の場合は 11 に収束する。 0<a<10<a<1 の場合はどうだろうか。少し表計算ソフトウェアで計算させて、収束はするだろう、という見当はついた。 その収束値 αα は、おそらく、logαα=logalogαα=loga を満たすような αα だろう (なお、対数の底にはよらない)。これを証明するのが難しい、ということだ。

見当をつけるだけなら、漸化式でよくやるような方法を使えばよい。 仮に、収束するとしたら anan も an+1an+1 も同じ値になるだろう。それを αα とおく。すると漸化式は、 α=aαα=aα となる。この両辺の対数をとって、logα=αlogalogα=αloga となる。αα を左辺にまとめれば、先に述べた式となる。

この αα に収束することを厳密に示すには、縮小写像の考え方が必要である。 関数(写像)ff が縮小写像であるとは、リプシッツ定数 kk が 0k<10k<1 となるリプシッツ連続な関数であることをいう。

なお、リプシッツ連続な関数の定義は次のとおりである。
関数 f(x)f(x)が、任意の実数x,yx,yに対し 
f(x)f(y)kxy|f(x)f(y)|k|xy| 
を満たす(x,yx,yに無関係な)0 以上の定数 kk がとれるとき、関数 f(x)f(x)はリプシッツ連続である (または kk-リプシッツ連続である)といい、kk をリプシッツ定数という。

ここまで用意すると、次の定理が使える。

関数 f(x)f(x) が縮小写像のとき、漸化式 an+1=f(an)an+1=f(an) で定まる数列は、f(x)f(x) の不動点 αα に収束する。

この定理の証明は省略する。この志村の問題では、f(x)=axf(x)=ax とすれば f(x)f(x) は縮小写像であり、したがって、数列 {an}{an} は、 不動点 f(α)=αf(α)=α を満たす αα に収束することがいえる (2019-05-05) 。

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