メモ 「フェルマーの最終定理」の「谷山の死」 ( 「谷山=志村予想」は、「志村予想」だった!)


「フェルマーの最終定理」の「谷山の死」の衝撃がわたしにとっては大きかったのです。


「フェルマーの最終定理」を読まれた方はこの不可解な死をどう消化したんだろうと思ってしまいます。



            谷山 豊(左)と志村五郎(右)

そもそも谷山の死とは何なのか、ということですが、以下のようなことです。
(ほとんど棒読みですが…)

谷山の唯一の援軍は志村だった。志村は、友人のアイディアの力強さと深さを信じていた。シンポジウムが終わると、志村は谷山の仮説を発展させる仕事に取りかかった。誰も無視できなくなるまで、その仮説を肉付けしようというのである。そうして仮説を磨きあげるうちに、志村は、楕円方程式はどれもみなモジュラー形式と関係づけられるのではないかと考えはじめた。必要なのはモジュラー形式であって、保型形式という広がった世界ではないということだ。別の言い方をすれば、志村は、楕円の世界とモジュラーの世界とが直接的につながっているのではないかと提案したのである。しかし1957年、志村はプリンストン高等研究所に招かれ、そのためにこの研究は一時中断されてしまう。志村は、米国で二年間の客員教授を務め終えたら、ふたたびこの問題に戻るつもりだった。しかし1958年11月17日、予想もしない出来事が起こった。谷山豊が自ら命を絶ったのである。

谷山の死後、志村はこの予想を定理として完成させるのですが、谷山=志村予想はその後アンドレ・ヴェイユ(数論のゴッドファーザーと言われているそうです)によって世界的に広められます。
定理にはほとんど関係がないヴァイユはその功績?によってその後「谷山=志村予想」は15通りもの呼び名でよばれるようになるのです。
「谷山=志村=ヴァイユ予想」、まれに「ヴァイユ予想」等々…。
戦後間もない国際社会では、数学界だけでなくあらゆる分野が白人主義的偏狭なものであった一端を知る出来事だなと思いました。

桜井進という科学者の寄稿で「フェルマーその頂上への遙かなる道~谷山豊に捧げるレクイエム~」を読むと、志村五郎に電話した時の様子が書かれています。
志村が言いたかったこと、要約。

谷山・志村予想と呼ばれているがそれは非常に不愉快であるということ。
谷山が語ったことは不正確であり、後に志村五郎氏が定式化したことがいわゆる谷山・志村予想そのものである。
ゆえにそれは「志村予想」と呼ぶのがふさわしいということ。
研究は志村氏により谷山豊とはまったく独立になされたということ。

国際電話だったらしいのですが、それを忘れるくらい長時間続いたということです。
桜井氏は志村五郎との国際電話を「堰を切ったように」と表現していますが、志村五郎の「谷山豊と彼の生涯 個人的回想」を読むと、数学者として冷ややかに谷山の仕事ぶりを見、また自分にはない独創性に敬意を表しながらも、時にはコケティッシュに谷山を写実的に描いているところなどは面白いなと思いました。

少し紹介すると以下のようなことです。

この共同研究の間、場所が私の家よりも大学からかなり近かったので、私はよく問題を議論するために彼の"荘"を訪れた。彼はいつも夜遅くまで仕事した。1957年の私の日記が、4月4日の午後、正確に言えば午後2:20に訪問したら彼はまだ寝ていたことを物語っている。彼は午前6時に床に入ったと言った。別の時には、おそらく朝の遅い時であろう、ドアをノックしても返答が無かったので、彼の住いから30分列車に乗って学部事務室へ行った。彼がそこにいたから、"ここに来る前に君の所に立ち寄ったよ"と彼に言った。それに対して彼が言うには、"うむ、その時僕はそこにいたかい?"。彼は自分のへまが分かると、どぎまぎして自分の立場を擁護すべく以下のように言った。"だが、君も知っているように、その日のその時間は大抵眠っている"。
いろいろな面で私と異なっていることを発見した。一つは、私は早起きだったし、現在も早起きである。当時、彼が合理的で私が変わっていると思っていたが、間違っていたのかも知れない。私達に共通するものもあった。つまり、両者が大家族の末っ子だった。私は5番目で末っ子である。私はこれを、日本の家族における長子の自己中心性をよく憤慨したものだったという理由で言う。彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども、多くの間違い(大部分は正しい方向に)を作る特殊な才能に恵まれていた。私はこのため彼を羨ましかった。彼を真似ようと虚しく努力したが、良い間違いを作ることは本当に難しいことだと分かった。

谷山豊と彼の生涯 個人的回想


桜井進氏は寄稿で、谷山豊に対するセンチメンタルな感情があったことを書かれていますが、わたしも「フェルマーの最終定理」の「谷山=志村予想」を読んだときしばらくは茫然としてしまいました。
なぜ?
なぜ?
なぜ?
と思ったんですが、問い詰めて考える中で一つの回答が与えられました。
それは、志村五郎の「谷山豊と彼の生涯 個人的回想」にも書かれていました。

以下は桜井進氏の東洋経済寄稿からの引用文です。

●谷山豊に捧げるレクイエム
思えば、体が弱く、人付き合いも下手な青年がたった一つ生きていく道を見つけたのが数学だったのだ。清司氏(豊の兄)の話では、豊は負けず嫌いだったそうである。自分の能力の限界を知り、戦いに勝ち抜く自信がなくなったのではなかったのか、私にはそう思えた。しかし、そう思った私はすぐに「そうではない、そうあってはならない」とも思った。本当にそれしか残された道はなかったのか。
 数学だけが生きる場所だなんて寂しすぎはしないか。
それでも、私には谷山を責めることはできないのだ。3枚目の写真は昭和34年1月25日とある。谷山、鈴木の両家が豊と美佐子の写真を胸に写っている。埼玉県騎西町で行われた葬婚式である。二人はあの世で結ばれたのであった。二人の間に何があったのか清司氏ですらわからない。美佐子は鈴木家の一人娘であった。年取った両親を残して悲しませてまで美佐子は谷山の後を追わなくてはならなかったのか。
 4枚目の写真にはその二人の戒名が並んで刻まれた墓石が写っている。葬婚式を挙げた美佐子は豊の墓にいる。私は兄清司氏と会った後にこの墓地にいき墓石の前で二人に手を合わせた。鈴木美佐子の遺した言葉を思い出しながら。
「私たちは、何があっても決して離れないと誓いました。彼が逝ってしまったのだから、私も一緒に逝かなければなりません」 
 数学はその真理の永遠性にこそ醍醐味があるといえる。フェルマーの最終定理は谷山・志村予想とともに永遠の真理となった。そこに至るまでにどれだけの数学者のイコールというレールのリレーがあったのだろう。人間は儚い有限なる存在だからこそ無限や永遠といったものにあこがれる。
 あまりも哀しすぎるこの数学の物語。しかし、その数学はあまりにも美しい。今、谷山豊の31年の人生は鈴木美佐子のおかげで永遠に私の心に生き続けるものとなった。


志村五郎の言葉です。

「私は、良さ(goodness)の哲学というものを持っています。それは、数学はその内に良さをそなえていなければならないということです。楕円方程式の場合であれば、モジュラー形式でパラメトライズできる方程式は良いものといえます。私は、すべての楕円方程式が良いものだと期待しているのです。これはかなり粗い哲学ですが、出発点にするのならかまわない。もちろん私は次のステップとして、この仮説を支持するさまざまな専門的根拠を見つけなければならないわけです。この予想は、良さの哲学から芽生えたものといって差し支えありません。たいていの数学者は、自分の美意識に照らして数学をやっているものです。そして良さの哲学は、私の美意識から生まれたものなのです」

「神はあたかも彼を家庭人でなく修道的数学者に設計していたかのようだった」
と、「谷山の死」を志村五郎はこう述べています。

谷山の生涯=数学は美しい、でも「エレガント」ではない。
志村五郎は冷徹に厳しく谷山の死を又はプロとしての「数学」を分析する、しかしそこには性善説に基づく「良さの哲学」がある。

/////

「フェルマーその頂上への遙かなる道~谷山豊に捧げるレクイエム~」


フェルマーその頂上への遙かなる道~谷山豊に捧げるレクイエム~


●若き日本人数学者 谷山豊

1994年、350年以上をかけた数学史に残る格闘の歴史に終止符が打たれた。数学者ワイルズがフェルマーの最終定理を証明すべく立ち向かった真の相手は「谷山・志村予想」であった。
「谷山・志村予想」の証明が完了した瞬間、フェルマーの最終定理は自動的に証明されたのであった。20世紀の最後に打ち立てられた金字塔には我が日本人の名が刻まれている。

 今その栄誉を受ける谷山豊はこの世に存在しない。31歳で自ら命を絶った谷山がその栄誉を知るはずもなかった。その事実を知った時から私は谷山豊という数学者に得も言われぬ思いがわいた。それは当初、悲劇の主人公にセンチメンタルな気持ちを抱いたものであった。

 しかし、そのありがちな思いが私の中から除かれたとき得も言われぬ思いの本当の正体を知ることになった。

私の手元には「谷山豊全集[増補版]」(1994年、日本評論社発行)がある。生前の谷山の足跡をまとめたほとんど唯一の資料である。手記、論文、往復書簡等が載っている。谷山の遺言で締めくくられているその全集を読むにつけ数学者という人種の生き様を考えさせられた。フェルマーの最終定理で知ることになる谷山豊というひとりの数学者は私の中で次第に人間、谷山豊の関心に変わっていった。簡単に言えば「数学者として自殺をする理由とは何なのか」という素朴な疑問であった。

 純粋数学の代表である整数論はガウスをして「数学の女王」とまでいわせしめた。素学の王道である整数論を専門とした谷山に何があったのか。能力の限界を感じただけで自らの命を絶つまでに至るのか、私には理解できなかった。はたして、たとえ数学ができずとも生き続けるという道はなかった31歳の谷山豊に惹きつけられていった。

その私の願いは2006年、二つの出会いによって叶えられた。谷山豊の実兄である谷山清司氏に会い、直接に谷山豊の話を聞くことができた。そして、アメリカ在住の数学者志村五郎と電話で話を聞くことができたことだった。その二つの出来事に行き着くまではまた別な幸運なる出会いがあったのであるが、その話はまた別な機会に譲ることにして、60年以上前の谷山豊を知る生き証人の証言からみえてきた風景をここに紹介することにする。

●一本の電話

電話口の相手は「君は、クンマーとワイルズのどちらが偉いと思うか」と言った。答えに窮している私に彼はすかさず「それは圧倒的にクンマーだよ」と言った。その電話口の主こそ、数学者志村五郎であった。昨年私はフェルマーの最終定理の作品(桜井数学エンターテイメントショー)の制作に取りかかった。
 基本的に作品作りのソースは書籍である。私に影響を与えた科学者~ネイピア、ラマヌジャン、オイラー、ニュートン、アインシュタイン、仁科芳雄、皆今はなき過去の科学者~を私の視点で、私の思いを私の言葉で「語る」。それが桜井数学エンターテイメントショーである。最初に作品「フェルマーの十字架~谷山豊に捧げるレクイエム~」を発表したのが2004年だった。そのときも資料のほとんどは本だった。ただ、大学時代に講義でフェルマーを教えてれた先生がいたのでその体験も含まれる。
 ショーではその思い出は鮮やかに私の口から語られた。どんな本の言葉よりも本人の口から発せられた言葉~空気の振動~ほど私を揺さぶるものはない。これまで講義を受けてきた経験から、そして作品作りの中でそのことをいやというほど実感してきた。数学は誰にならっても同じなのではない。誰に習うかが重要なのだ。実体験が私の至宝となり、土台となってきたことを痛感している。黒板の言葉、本の中の言葉、直接語られる言葉、そのすべてが私の頭の中で融合しあって形~私の言葉~になる。さまざまな出会いがきっかけとなり桜井数学ショーができあがっていく。

 昨年春私に一通の手紙が届いた。送り主の御婦人は私がとある本に書いた文を読んで感銘して思うことがあり連絡してきたという。数学者谷山豊(たにやま・とよ)を知る御婦人は谷山家の所在をしっていると手紙に書いてきた。フェルマーの作品を手がけて以来、谷山豊に関して得られる情報の少なさにがっかりしていた私にとってその話にくいつかないはずはなかった。

 さっそく連絡をとり、谷山豊のお兄さんと会うことができた。その際に、谷山豊の同僚に志村五郎という数学者がいてフェルマーの問題を解決するのに重要な貢献をしたことを知るや、御婦人はもしかしてと切り出した。志村という名字の恩師がいて、一度だけ自分には数学者の弟がいると言ったのだそうだ。

 その方こそ谷山・志村予想の志村五郎ではないのかと。すぐに存命の恩師に連絡をとっていただき確認をしてもらった。はたして、その弟は志村五郎だった。思いもよらない出会いがフェルマーを語る私を生き証人に引きあわせてくれた。

20世紀、人類は一つの金字塔を立てることに成功した。1994年、難関不落を誇るフェルマーの最終定理の証明はアメリカ人数学者ワイルズによって成し遂げられた。そこでワイルズが証明したのは「谷山・志村予想」といわれる難問だったのだ。それもワイルズは日本人数学者岩澤健吉による岩澤理論を使って頂点に登り詰めた。日本人の貢献なしにワイルズの頂上アタックはあり得なかった。世界の数学者はそのことを知っている。

 しかし、それから10年以上経った今、これら日本人数学者の偉業を知る日本人は少ない。そして、まさか自分が考えていたことがフェルマーにつながっているとは予想だにしなかった若き数学者谷山豊は、自らの命を絶ったという事実。私の目の前の黒板とテキストの前で繰り広げられたフェルマー解決への物語のエンディングはハッピーエンドではなかった。

 いったいなぜ日本では自国の偉業を自国民に知らせないで平然としていられるのか。

 なぜ谷山豊は死を選ばなければならなかったのか。理解できないそれらに対する我が思いは、フェルマーの数学の難しさとともに絡み合っていった。

数学史上これほどの連係プレイで成し遂げられた仕事はない。フェルマーを知る多くの人々を魅了し続けた「フェルマーの最終定理」。解決しようと一生を捧げた人は数知れず。1970年代には、フェルマーに近づいてはいけないとさえ言われ、20世紀中に解決はありえないとさえ思われていた。

 「フェルマーの最終定理」に背負わされた多くの十字架を頂上に打ち刺す勇者は、はたして21世紀を目の前に現れたのだった。そのあまりに美しい数学物語。そしてそのドラマのエンディングを知らずに旅立った一人の若き数学者谷山豊。そのあまりに哀しい物語。これからの話は私が谷山豊に捧げるレクイエムである。

4


ソース: http://toyokeizai.net/articles/-/368 



●谷山豊の兄、谷山清司氏に会う

昭和2年(1927年) 谷山豊は埼玉県騎西町に生まれた。豊(トヨ)と名付けられたが、周りにユタカと呼ばれるようになり、後に自分でもユタカと名乗るようになった。
 昭和7年(1932年) 幼稚園に入園するが、人間関係がうまく築けずすぐに退園する。
 昭和20年(1945年) 浦和高等学校に入学。
 昭和25年(1950年) 高校卒業後病気療養のため大学進学がおくれ、ようやく東京大学理学部数学科(旧制)に入学した。

1


昭和28年(1953年) 東京大学理学部数学科を卒業。新数学人集団(略称SSS)結成に尽力した。
 昭和29年(1954年) 東京大学理学部数学科助手となる。終の棲家となる豊島区池袋のアパート静山荘に住み始める。このころから楕円曲線のゼータ関数について考察を行う。

2

  昭和30年(1955年) 志村五郎と知り合う。日光で開催された代数的整数論国際会議の席上、若き谷山は「楕円曲線はモジュラーである」とささやいた(前回第7回を参照)。同席した世界の第一級の数学者の中でその主張にうなずく者は誰もいなかった。皆が首をかしげた。谷山予想の誕生であった。



●1955年、日光

1955年9月8日~13日に、東京および日光で彌永昌吉教授等が計画した代数的整数論に関する国際会議が開かれた。ヴェイユ、アルチン、シュバレー、ドイリンク、セール等外国人数学者10名が来日した。

3


そこで日本人数学者谷山豊はここでいくつかの問題を出した。以下にその問題を原文のまま掲げる。

問題12 C を代数体k 上で定義された楕円曲線とし、k 上C のL 函数をLc(s) とかく:

ζ c(s) = ζ k(s)ζ k(s-1)/L c(s)

はk 上C のzeta 函数である。もしHasse の予想[ζ c がC 上有理型で函数等式をみたす]がζ c(s) に対し正しいとすれば、L c によりMellin 逆変換で得られるFourier 級数は特別な形の.2 次元のautomorphic form でなければならない(cf. Hecke)。もしそうであれば、この形式はそのautomorphic fuction の体の楕円積分となることは非常に確からしい。
 さてC に対するHasse の予想の証明は上のような考察を逆にたどって、L c(s) が得られるような適当なautomorphiic form を見出すことによって可能であろうか。

問題13 問題12 に関連して、次のことが考えられる。“Stufe”N の楕円モジュラー函数体を特徴づけること、特にこの函数体のJacobi 多様体J をisogeny の意味で単純成分に分解すること。またN=q=素数、かつq≡3(mod4)ならば、J が虚数乗法をもつ楕円曲線をふくむことはよく知られているが、一般のN についてはどうであろうか。

4


読んでいただいた感想はいかがであろう。整数論を専門としない方にとっては何を言っているかすらわからないと思われる。当時これは会議に集まった世界の一流の数学者にとっても理解しがたい内容だったのだ。読者におかれてはこのストーリーをお読みいただくにあたり、この問題の内容の理解は不要である。これを簡単にいや短くいうとすれば、「すべての有理楕円曲線はモジュラーである」となる。

 谷山はまったく異なる二つの世界~楕円曲線のL函数と保型形式~の関連をはっきり問題にしたのであった。これは当時としては画期的なことで高く評価される。谷山の友人、志村五郎の手によってこの問題は研究、精密化された。

5


志村は1962~64年頃に、その予想をセール、ヴェイユ等に話した。ヴェイユはその論文の最後で、これに触れているが、当時ヴェイユは懐疑的であった。その後、志村の研究によりその予想の正しさが明らかになっていった。このような経緯からこの予想は「谷山・志村予想」といわれるようになった。

 いったい誰がこの予想がフェルマーにつながっていると予想しえたか。 



昭和33年(1958年) 4月、東京大学教養学部助教授となる。10月、鈴木美佐子と婚約。プリンストン研究所より招きを受ける。そんななか突如、11月17日静山荘にて自殺。享年31歳。

以上が谷山豊の生涯である。兄清司氏の話によれば豊はとにかく人付き合いがなく、独り遊びがすきだったそうだ。体が弱く、軍国主義の旧制高校への進学に欠かせなかった体力検査に合格できないほどであった。文学や音楽にもほとんど興味を示さなかったそうである。

 以下は幼少時代のエピソードを兄清司氏が語ってくれたものだ。
 碁盤を目の前に碁というゲームのルールを自ら考えながら遊んだというのだ。そばにルールブックがあるにもかかわらずである。それはルールは必然的にあるものであり、ならばそれを見つけられるはずだと、そのルール探しをせずにルールブックをみるなどとはしたくないと豊は言っていたそうだ。これはまさに数学者の思考そのものである。

その幼少時代の谷山豊は東大に入るや水を得た魚のごとく活発に活動することになった。一見すると孤独なイメージがある数学者であるが、切磋琢磨を行う環境やグループの存在は必要不可欠なのである。人付き合いが下手な谷山であっても数学という自ら選んだ唯一の仕事のためならとその環境作りに一肌脱ぐようになっていったのである。

 さらには鈴木美佐子という人生のパートナーまで自ら見つけてしまうのであった。東大助教授という安泰なポストにつき、プリンストン研究所という活躍の場所まで手に入れようとした谷山にいったい何があったというのか。

谷山の遺書には「…何かある特定の事件乃至事柄の結果ではない。ただ気分的に云えることは、将来に対する自信を失ったということ。…」とある。

 昭和33年11月17日のことを兄清司氏は昨日のように覚えていた。その日、突然の電話に呼び出された清司氏は静山荘に駆けつけた。するとそこにはすでにひとりの女性がいて泣き崩れていた。聞けば豊の婚約者だというではないか。豊は家族には何も知らせていなかったのだ。その女性、鈴木美佐子は兄清司氏にこの部屋をそのまま私に住まわせて欲しいと懇願したそうだ。そしてそれがかなわないこととわかると、形見に豊がいつも着てきた背広を欲しいといわれ、背広を彼女に渡したそうだ。

今私の手元に4枚の写真がある。清司氏より見せていただいたアルバムのセピア色の写真をコピーしたものである。昭和33年11月24日付けの写真には、豊葬式翌日とあり谷山家の家族と鈴木美佐子が写っている。美佐子の表情は明るく見える。そのとなりにある写真には美佐子の姿はない。その写真は美佐子の葬儀当日のものである。美佐子の両親、清司氏らが写っている。豊が亡くなって2週間後、豊の葬式に参列した美佐子は昭和33年12月2日、豊の後を追ったのである。豊の住んでいた静山荘に住まおうとしてできなかった美佐子はその近くにアパートをすぐに借りたそうである。そして、豊が逝ったと思われる時刻に同じ方法、ガス栓をひねり美佐子は自殺をした。美佐子が倒れていた正面の壁には彼女が形見にもらった豊の背広がつるされていたそうだ。
 谷山豊の生家で清司氏にその話を伺った。私のなかで谷山豊の最期の風景はセピア色からフルカラーに変わっていくのがわかった。しかし、センチメンタルな思いがなくなるわけではなかった。 



●1985年フライの登場

1985年フライ(Gerhard Fley)の登場でフェルマーの最終定理は谷山・志村予想とつながりはじめ、リベットにより谷山・志村予想にフェルマーの最終定理が従うことが証明された。

7


ではいかにして谷山・志村予想を証明しようとするのか。谷山・志村予想「すべての有理楕円曲線はモジュラーである」の楕円曲線とモジュラーの間を「ガロア表現」といわれる言葉で結びつけるのがアイディアである。ワイルズがここまでたどり着くのに数年を要した。ワイルズは、ラングランズ、タンネル、メイザーらの大定理を使って、楕円曲線のモジュラーの関係が「R=T」に帰着することを見抜いた。

8


環R は代数的であり、環T はモジュラーと縁が深く解析的だ。ここにゼータ関数が現れて重要な役割を果たすことになる。岩澤理論の専門家であるワイルズが最も得意とする分野であった。

9


この研究は1993年のワイルズの最初の論文で形となったが、その中に誤りが見つかった。そしてこの最後の難関は弟子であったテイラーの力をかりて1999年ついに乗り越えられた。そこで証明されたのが「T は完全交叉である」という定理であった。ここにおいて、谷山・志村予想(の一部)が、従ってフェルマーの最終定理が証明されたのである。その後、テイラー、コンラッド、ダイアモンド、ブレイユの共著論文により、谷山・志村予想は完全に証明された。フェルマーの影の主役となった谷山豊。ようやくその短き32年の人生を語る準備ができた。次回は、谷山豊兄への取材と志村五郎との電話インタビューを通して浮かび上がる人間谷山豊に迫る。


フェルマーその頂上への遙かなる道~谷山豊に捧げるレクイエム~
 

●数学者志村五郎氏との電話

清司氏と会ってから数ヶ月が過ぎたとき、私は国際電話をかけていた。時差を考え、朝のはやい時刻であった。女性の声で「志村です」と聞こえた。事情を話す私の心臓はいつもの倍のリズムを刻んでいた。そして、志村五郎氏本人が電話口にでた。非常にはっきりとした口調に自然と背筋が伸びた。私は電話をするまでのいきさつを伝えた。そして聞こうとしていた本題にはいるやいなや志村五郎氏は谷山・志村予想について堰を切ったかのように語り始めた。残念ながらそのすべてをここに紹介することはできない。しかし、その電話のインタビューで私がわかったポイントだけを述べることにする。谷山・志村予想と呼ばれているがそれは非常に不愉快であるということ。谷山が語ったことは不正確であり、後に志村五郎氏が定式化したことがいわゆる谷山・志村予想そのものである。ゆえにそれは「志村予想」と呼ぶのがふさわしいということ。研究は志村氏により谷山豊とはまったく独立になされたということ。

この電話インタビューは国際電話であることを忘れてしまうほどの時間続いた。そしてそれが終わったとき、私は呆然としてしまった。このときようやく谷山豊に対するセンチメンタルな思いが消えていた。世界の志村五郎氏との話からプロの仕事の厳しさが伝わった。同時に、谷山の遺言の言葉の意味がわかった気がした。当時海外に出て研究をするということはけっして嬉しいことだけではなく、逆に大きな責任を負うことを意味していた。結果を出すことができなければそれは即地位を失いかねなかった。だから谷山はプリンストン行きを相当考えた上で受けたのである。

以前、高校で行った講演会で、生徒から次のような質問を受けたことがある。
「ガロアやガウスのような天才と自分の凡庸さをくらべたときに、数学研究に向かう気持がくじけてしまいます。先生はどんな風に考えていますか」 
 これに対する私の返事は、
「一番大切なのは、神様から与えられた自分自身の頭と能力をどれだけしっかりと使うか、自分の可能性をどこまで引き出せるかであって、他人と比較しての優劣ではない。彼らは皆、与えられたものを最大限に生かし切ったという意味で偉大なのだ。だから、それは君にだってできる」 
であった。私は谷山豊のことを思い浮かべながら答えた。



●谷山豊に捧げるレクイエム

思えば、体が弱く、人付き合いも下手な青年がたった一つ生きていく道を見つけたのが数学だったのだ。清司氏の話では、豊は負けず嫌いだったそうである。自分の能力の限界を知り、戦いに勝ち抜く自信がなくなったのではなかったのか、私にはそう思えた。しかし、そう思った私はすぐに「そうではない、そうあってはならない」とも思った。本当にそれしか残された道はなかったのか。
 数学だけが生きる場所だなんて寂しすぎはしないか。

それでも、私には谷山を責めることはできないのだ。3枚目の写真は昭和34年1月25日とある。谷山、鈴木の両家が豊と美佐子の写真を胸に写っている。埼玉県騎西町で行われた葬婚式である。二人はあの世で結ばれたのであった。二人の間に何があったのか清司氏ですらわからない。美佐子は鈴木家の一人娘であった。年取った両親を残して悲しませてまで美佐子は谷山の後を追わなくてはならなかったのか。
 4枚目の写真にはその二人の戒名が並んで刻まれた墓石が写っている。葬婚式を挙げた美佐子は豊の墓にいる。私は兄清司氏と会った後にこの墓地にいき墓石の前で二人に手を合わせた。鈴木美佐子の遺した言葉を思い出しながら。
「私たちは、何があっても決して離れないと誓いました。彼が逝ってしまったのだから、私も一緒に逝かなければなりません」 
 数学はその真理の永遠性にこそ醍醐味があるといえる。フェルマーの最終定理は谷山・志村予想とともに永遠の真理となった。そこに至るまでにどれだけの数学者のイコールというレールのリレーがあったのだろう。人間は儚い有限なる存在だからこそ無限や永遠といったものにあこがれる。
 あまりも哀しすぎるこの数学の物語。しかし、その数学はあまりにも美しい。今、谷山豊の31年の人生は鈴木美佐子のおかげで永遠に私の心に生き続けるものとなった。

/////

 
/////